重要な意思決定
19883月

米ファイアストンを買収(米国5工場・欧州6工場)

背景

ピレリの対抗入札により買収価格が当初計画の3倍に高騰

1988年1月、ブリヂストンはファイアストンの株式75%を7.5億ドルで取得し、合弁方式で米国市場に進出する計画を公表した。ところが、イタリアのタイヤメーカー・ピレリが1株58ドルでファイアストンの買収計画を発表したことで、状況は一変した。ブリヂストンは合弁から完全子会社化へと方針を転換し、ピレリが財務的に追随できないと予想される水準として1株80ドルを提示した。

この結果、買収総額は26億ドル(約3400億円)に達し、当初の合弁計画における7.5億ドルから3倍以上に膨張した。社長の家入昭は「ドロ試合は避けたかった」「一発で勝負しろ」というアドバイザーの助言に従い、入札を即決で終わらせる価格設定を選択した。買収価格の根拠はファイアストンの資産価値ではなく、競合を排除するための戦略的な値付けであった。

ただし、この買収が実現しなければ、ミシュランやピレリにファイアストンが渡り、ブリヂストンが欧米市場に大規模な生産・販売拠点を確保する機会は二度と訪れなかった可能性がある。江口会長は「ブリヂストンに2度と国際化のチャンスはなかった」と回顧している。

決断

買収直後のGM契約打ち切り通告と1日100万ドルの赤字

買収の完了直後、1988年5月にGMは「1990年までにファイアストンとの納入契約を打ち切る」方針を発表した。日本企業による米国メーカーの買収に対する反発が背景にあったと推察されるが、大口顧客の喪失は買収後のファイアストンの業績を直撃した。1990年12月期には3.5億ドルの赤字を計上し、「1日100万ドルの赤字」と形容される事態に陥った。

さらに、買収後に判明した問題が工場設備の老朽化であった。ファイアストンは1970年代からグローバル競争で劣勢に立たされ、設備更新が長年にわたって滞っていた。米国5工場・欧州6工場のいずれも生産性が低い状態で放置されており、ブリヂストンは1500億円の追加設備投資を決定した。買収価格3400億円と合わせると、ファイアストンの取得・再建に総額4900億円を投下する形となった。

設備の老朽化は買収時に十分に織り込まれておらず、ブリヂストンにとって想定外の支出であった。ピレリとの入札競争で高騰した買収価格に加え、GMの契約打ち切りと設備更新の追加投資が、買収後の経営を三重に圧迫する構造となった。

結果

日本・米国・欧州の三極体制を確立した世界最大級のタイヤメーカーへの躍進

ファイアストンの買収は、ブリヂストンに米国5工場と欧州6工場をもたらし、日本・米国・欧州の三極にまたがるグローバル生産体制を一挙に構築した。この生産拠点に加え、ファイアストンのブランドと販売網を獲得したことで、1983年のナッシュビル工場取得時には解決できなかった販路の問題が解消された。

買収直後の業績は厳しかったが、ブリヂストンは生産技術者の派遣や姉妹工場制度による品質改善、そして1992年のBFS設立による組織再編と大規模リストラを通じて再建を進めた。4900億円という投資総額は巨額であったが、この買収なくしてブリヂストンが世界のタイヤ市場でミシュラン・グッドイヤーと並ぶ地位を確立することは困難であった。

ファイアストンの買収は、入札競争による価格高騰・GM契約打ち切り・設備老朽化という三重の逆風を受けながらも、長期的にはブリヂストンのグローバル化を不可逆的に推進した経営判断であった。買収後の再建に10年近くを要した事実は、大型M&Aの成果が短期間では測れないことを示している。