東京工場を新設(第1期・第2期)
モータリゼーションに伴うタイヤ増産体制の必要性
1950年代後半から日本経済は高度成長期に入り、自動車の保有台数が急増した。タイヤの需要も急拡大し、福岡県久留米市の既存工場だけでは供給が追いつかない状況が生じていた。ブリヂストンは首都圏でのタイヤ量産を企図し、1957年に東京近郊の小平町で5.7万平方メートルの工場用地(旧陸軍補給厰跡地)を取得した。町長の熱心な誘致もあり、立地が決定した。
1958年から第1期工事に着手し、1960年1月に竣工。第1期の稼働により、ブリヂストンのタイヤ生産量は30%増産となった。さらに予想を上回る需要増加を受けて計画を前倒しし、1961年初から第2期工事にも着手。同年11月に第2期を完了させた。
資本金25億円に対して88億円を投じた社運を賭けた設備投資
第1期・第2期の合計投資額は88億円に達し、当時のブリヂストンの資本金25億円を大幅に超過する規模であった。資金調達では日本長期信用銀行などからの長期借入を中心とし、約90億円を借り入れた。自己資本比率の悪化を防ぐために、1961年に株式上場を実施して倍額増資を行い、資本金を80億円に引き上げている。東京工場の建設資金の確保が、石橋家の同族経営から公開企業への転換を促した側面があった。
生産ラインの急速な立ち上げにあたっては、久留米工場から約800名の従業員を東京工場に配置転換した。住み慣れた九州から地縁のない東京への転居を伴う大規模な人事異動であり、ブリヂストンにとって人材面でも大きな負荷を伴う判断であった。
タイヤ国内シェア46%を確保し業界首位を確立
東京工場の稼働により、ブリヂストンは国内自動車メーカーに対するタイヤの供給能力を大幅に増強した。1962年時点で国内タイヤ生産シェア約46%を確保し、横浜ゴム・住友ダンロップを抑えて国内首位のタイヤメーカーとなった。石橋正二郎は「市場占拠率46%を占めるに至ったことは、わが社の歴史に特筆すべきこと」と記している。
資本金を3倍以上超過する投資と株式上場の決断は、高度成長期のタイヤ需要を取り込むための不可欠な条件であった。久留米の同族企業から首都圏に大工場を持つ上場企業への転換は、東京工場の建設を契機に不可逆的に進行した。