米ボーグ・ワーナーとの折半合弁でアイシン・ワーナーを設立
主力に育つATと特許の壁
合併後のアイシン精機で急成長したのが自動変速機(AT)だった。当時すでに米国のAT普及率は7割を超え、ATは付加価値の高い値嵩商品として、機能部品のなかでも最大の製品に育つ可能性を持っていた。トヨタは1960年に国産初の本格的なATトヨグライドをクラウンに搭載し、その生産を1961年から愛知工業が担った。
1966年に登場した排気量1,100ccのカローラがマイカー時代を牽引すると、クラッチ操作の要らないAT車の需要は女性ドライバーの増加とともに小排気量車へ広がった。アイシン精機はカローラ用に軽量なアルミ合金製ATを開発し、刈谷工場にAT専用の量産ラインを敷いた。ATの生産額は自動車部品部門の10%を超え、単一製品として最大の部門へと成長していた。
ところが、トヨグライドをはじめ各社がほぼ同じ方式で開発したATは、米国ボーグ・ワーナー社の基本特許に抵触する問題を抱えていた。いわゆるワーナータイプのATは、基本特許をボーグ・ワーナー社が、周辺特許をGMとフォードが保有していた。完成車・部品・資本の自由化が重なるなかで、特許の問題は看過できない段階に入っていた。
特許係争を避け折半出資の合弁へ
日本側には特許係争も辞さないという強硬論もあったが、アイシン精機はトヨタ自動車工業と慎重に協議した結果、ボーグ・ワーナー社からの合弁会社設立の提案を受け入れた。AT専門の日米合弁会社を日本に新設する点では早くから合意したものの、1966年8月に始めた交渉は難航した。
どちらが出資のマジョリティを握るかで二転三転し、資本自由化を控えた通産行政との兼ね合いもあって、認可までに2年半以上を要した。交渉の場を東京とシカゴの間で幾度も移しながら合意点を探り、最終的に相互信頼に立って折半出資で決着した。
1969年5月、資本金21億6,000万円でアイシン・ワーナー株式会社が発足した。本社は刈谷市に置き、初代社長にはアイシン精機副社長の豊田稔氏が就いた。安城市に16万5,000m²の新工場を建設し、刈谷第2工場のAT部門の生産設備と従業員を移した。
AT世界上位シェアと52年の並走
アイシン・ワーナーは折半出資の国際企業として出発し、モータリゼーションの進展に比例するAT需要を背景に、日本の自動変速機業界を担う存在へ育った。4速AT・ロックアップ機構・電子制御へと技術が進むなかで力を伸ばし、1988年にアイシン・エィ・ダブリュへ社名を変更して、ATの世界市場で上位シェアを占めるアイシングループの主力事業会社となった。
対米輸出車の多くがAT仕様だったこともあり、ATはグループの収益を支えた。ボディ機構部品の本体とAT専業のアイシン・エィ・ダブリュという二本柱は、2021年に本体へ統合されるまで52年にわたり並走した。特許の壁を合弁という形で越えた選択が、その後半世紀のグループの稼ぎ頭を生んだ。
- ボーグ・ワーナーと合弁交渉を開始
- 合弁会社設立契約に調印
- 政府の外資審議会が認可
- アイシン・ワーナーが発足
特許係争という選択肢を退け、特許を保有するボーグ・ワーナー社と折半出資で組んだ判断が、結果として半世紀にわたりグループ最大の収益源となるATの基盤をつくった。