愛知工業と新川工業が合併しアイシン精機が発足
モータリゼーション前夜のトヨタ系2社
1960年代初頭、日本のモータリゼーションが本格化する前夜、トヨタ自動車工業は乗用車の量産体制を整えていた。1959年に国産初の本格的な乗用車量産工場である元町工場を完成させ、カローラの主力工場となる高岡工場の建設を見据えて設備投資を重ねた。グループ全体の生産体系を整えるなかで、トヨタは関連部品メーカーの間で生産の分担と調整を進めていた。
その中核にいたのが、ともにトヨタ系の自動車部品メーカーである愛知工業と新川工業だった。両社は豊田喜一郎氏の事業を源流とする兄弟会社で、戦時下に航空機会社として生まれ、戦後は自動車部品へ転じた。朝鮮特需を機にトヨタの業容拡大とともに伸び、愛知工業の自動車部品売上は1959年の年間35億円規模から5年で約4倍に膨らみ、新川工業も1964年には半期で30億円を超えるまでに成長した。
両社の扱う領域は近く、愛知工業はトランスミッションやブレーキなど駆動・制動部品とミシン、新川工業はクラッチを中心とする伝導部品とドア回りの車体部品を得意とした。自動変速機トヨグライドの生産を愛知工業が担い、新川工業が研究していたトルクコンバーターを断念するなど、グループ内の機能部品の生産分担をめぐる課題も抱えていた。
| 項目 | 愛知工業 | 新川工業 |
|---|---|---|
| 前身(戦時下) | 東海飛行機(1943年・トヨタ自工+川崎航空機) | 東新航空機(1945年・東海飛行機の分身) |
| 戦後の歩み | 自動車補給部品とミシン(1946年・豊田喜一郎の発案) | 自動車部品・工作機械へ転換(1945年9月〜) |
| 得意領域 | 駆動・制動(トランスミッション/ブレーキ) | クラッチ等の伝導とドア回り車体部品 |
| 自動車部品売上 | 1959年 約35億円→64年に約4倍 | 1964年 半期で30億円超 |
| ATとの関わり | トヨグライド生産を担当(1961年〜) | トルコン研究を断念し自動クラッチへ |
豊田英二の提案と4年越しの合意
合併構想は1961年2月、トヨタ自動車工業副社長の豊田英二氏が、グループの会合の席で両社首脳に合併を促したのが始まりだった。トヨタ車の重要機能部品をつくる2社の一体化という構想は、条件こそそろっていたものの、合意までに約4年を要した。
統合の調整を担ったのは、戦後に愛知工業のミシン部門育成にも携わり、のちに新川工業の再建社長として同社を有力部品メーカーへ育てた渡部氏だった。両社首脳は年率20%を超える成長のなかで独立独歩の道も意識したが、合併を真に実りあるものにするため果実が熟すのを待つように検討を重ね、大局的な見地から小異を捨てて1964年末に合意した。
1965年2月23日、合併が正式に発表された。同じ分野の機能部品をつくるほぼ同規模の2社を一体化して企業体質を強め、トヨタグループの中核部品メーカーに育てる狙いだった。同年8月、愛知工業が新川工業を吸収合併し、社名をアイシン精機株式会社に変更した。社名のアイシンは、愛知工業の「アイ」と新川工業の「シン」を組み合わせている。
トヨタ系部品の中核体制と業界再編の先駆
合併後の資本金は2,856百万円となり、新川工場・新豊工場を引継いだ。トヨタのあっせんによる自動車部品メーカーの大同団結として注目され、完成車輸入の自由化を同年10月に控えた大型合併の発表は業界に波紋を広げた。翌1966年の日産によるプリンス自動車工業の吸収、1971年のいすゞとGMの提携へと続く自動車業界再編の先駆けとなった。
自動車部品のブランド統一にも踏み込んだ。ミシンや電気洗濯機などの家庭用品は従来どおりトヨタ商標を使い続けたが、愛知工業の「アイコウ」、新川工業の「シンカワ」と分かれていた自動車部品の商標は「アスコ」に統一し、ブランドの面でも両社の一体化を進めた。
アイシン精機は、駆動・制動部品とクラッチ・車体部品を併せ持つトヨタ系部品メーカーの中核として再出発した。この合併で得た自動変速機とクラッチの技術は、のちのアイシン・ワーナー設立やボディ機構部品事業へ広がり、現在のアイシンの源流となった。
- 豊田英二が両社首脳に合併を提案
- 両社が合併に合意
- 合併を正式発表
- 愛知工業が新川工業を吸収合併しアイシン精機が発足
愛知工業の「アイ」と新川工業の「シン」を組み合わせた社名は、吸収する側・される側という形式を超えて、両社を対等な源流として残す意図を映している。豊田喜一郎氏を共通の祖とする兄弟会社の統合だった。