組織改革・事業再編
1957

新川工業がクラッチ専業化を決断

歴史的意義
「選択と集中」の原型

資源不足のなかで扱う部品を広げず、クラッチに資源を集めた判断が、合併後のアイシンに伝導部品の技術基盤を残した。

背景

資源不足の戦後復興期と研究開発の課題

新川工業の前身は、1945年2月に豊田喜一郎氏の発意で設立された東新航空機である。終戦で航空機工業が禁止されると同年9月に民需へ転換し、新川産業株式会社へ社名を改めて自動車部品の製造販売を企業目標に定めた。戦後はトヨタ自動車工業の直系部品メーカーとして再出発したが、人材・設備・資金のいずれも不足するなかでの歩みだった。

昭和30年代に入ると日本のモータリゼーションが胎動期を迎え、自動車部品メーカーとして自立するための研究開発の強化が切実な課題となった。新川工業はドアロックやドアヒンジ、ショックアブソーバーなど幅広い部品を手がけていたが、限られた経営資源をどこへ集中させるかが問われた。

決断

クラッチの世界的専門メーカーへの集中

新川工業は、クラッチ関係部品の重要性に着目し、ここに経営資源を集中させる道を選んだ。渡部社長は研究開発部門の強化を最優先に掲げ、クラッチの専門メーカーをめざす方針を固めた。

1957年にはクラッチフルサイズテスターを開発し、パブリカ用の特殊クラッチや自動クラッチの開発に着手した。同年にはクラッチフェーシングの材質をレジンモールドへ切り替え、新川工業製のクラッチディスクにトヨタブランドを付けることも認められた。1959年には、当時国産車にほとんど使われていなかったダイヤフラム式クラッチの開発にも乗り出した。

渡部 新川工業 社長
日進月歩の自動車工業界で当社が生き残る道は技術開発の強化あるのみ
結果

クラッチの技術基盤が合併後の柱に

製造品目はディーゼル用やダイハツミゼット用、小松農耕車用のクラッチへ広がり、製造技術もセラミックバイト加工へ転換するなど量産化が進んだ。クラッチ以外でも油圧ダンパーを開発して鈴木自動車やヤマハ発動機へ納め、トヨタの要請で窓枠などの車体部品にも進出した。

新川工業は昭和30年代前半に、クラッチを軸として自動車部品メーカーとしての技術的基礎を確立した。1965年の合併後、このクラッチ技術はアイシン精機の伝導部品事業の柱となった。

関連する動き
  1. クラッチフルサイズテスター・自動クラッチを開発
  2. ダイヤフラム式クラッチの開発に着手
  3. アイシン精機発足でクラッチが伝導部品事業の柱に