重要な意思決定
20097月

FPD事業の大幅縮小と半導体集中

背景

リーマン・ショックによる赤字転落

2000年代のレーザーテックは、半導体の検査・計測装置と、フラットパネルディスプレイ(FPD)関連の検査・修正装置を二本柱とする事業構成であった。売上高に占めるFPD事業の比率は約半分に達しており、特に液晶用カラーフィルター修正装置が主力製品であった。2008年3月には新横浜に研究開発センター兼本社社屋を建設し、土地と建物の借入金も抱えていた。売上高は100億円前後で推移し、従業員は200人規模であった。

2008年9月のリーマン・ショックは、半導体・FPD双方の設備投資を急速に冷え込ませた。レーザーテックの2009年6月期決算は赤字に転落した。工場を持たないファブライト経営は固定費が相対的に低い一方、販売台数が減少すると製品の製造を委託する外注コストを上回る利益を確保できなくなるという構造的な脆弱性を抱えていた。売上が落ちると即座に赤字に転じるビジネスであったと、岡林自身が振り返っている(出所:日興フロッギー 2024年4月17日)。

FPD事業の中でも主力であった液晶用カラーフィルター修正装置は、求められる技術水準が競合他社でも達成できるレベルにあり、技術で差別化できない価格競争に陥っていた。薄利多売で販売台数が増えても、ファブライト経営の構造上、利益は大きく伸びなかった。岡林理は2001年にセールスマーケティング強化のためにレーザーテックに入社し、営業担当時代からこの事業の収益構造に問題意識を持っていた。

決断

売上の半分を占めるFPD事業を縮小

2009年7月、岡林理が5代目社長に就任した。就任直前の6月期決算は赤字であり、2期連続の赤字になれば辞任するしかないという覚悟での船出であった。岡林は社長就任前からレーザーテックの強みと弱みを考え抜いており、同社の強みは小回りの効くスピーディーな開発力と、困難な課題を克服して付加価値を出す技術力にあると結論づけていた。就任後、売上の約半分を占める液晶用カラーフィルター修正装置事業からの撤退を決断し、技術的に差別化可能なFPDマスク検査装置のみを残して、それ以外のFPD事業を大幅に縮小した。

この決断に対しては社内から反対の声もあった。財務的に厳しい状況下で、売上高の半分を失うことへの恐怖は岡林自身も認めている(出所:日興フロッギー 2024年4月17日)。新横浜の社屋建設に伴う借入金も抱えており、赤字が続けば資金繰りが逼迫するリスクがあった。しかし岡林は、薄利多売のFPD事業を続けていてはエンジニアの努力が報われないと判断した。困難であっても技術的な強みを活かせる分野に挑戦し、付加価値の高い製品を生み出す方が、レーザーテックの個性に合致すると考えた。

縮小で浮いたリソースは半導体関連事業に振り向けられた。岡林は海外の半導体デバイスメーカーへの営業を積極化し、顧客のもとにアポイントを取って自ら足を運ぶところから関係構築を始めた。エンジニアが営業と一緒に顧客の製造現場を訪問し、ニーズを直接聞き取って製品開発に反映する「マーケットイン」のアプローチを組織全体に浸透させた。顧客の近くにエンジニアが駐在できるよう、台湾・韓国・中国・シンガポールに現地法人や支店を設立し、海外での技術サポート体制を整備した。

結果

12年連続増収、売上29倍への起点

FPD事業から半導体事業へのリソース集中は、就任翌期の2010年6月期から効果を現した。売上高86億円、営業利益7億円と小規模ながら黒字を回復し、以後12年連続の増収を記録することになる。半導体メーカーへの営業を積極化したことで、受注は着実に増加していった。2025年6月期には売上高2,514億円、営業利益1,228億円(営業利益率48.8%)に達し、就任時から売上は約29倍、営業利益は約175倍に拡大した。

海外売上比率は約90%に達し、TSMC・サムスン電子・インテルの3大半導体メーカー向け売上が約6割を占めるグローバル企業へと変貌した。資本市場での位置づけも大きく変わり、東証二部上場(2012年)、東証一部指定(2013年)、プライム市場移行(2022年)と上場市場を段階的に引き上げた。2022年と2023年には東証の年間売買代金で首位を独走し、日本の株式市場で最も活発に取引される銘柄となった。

FPD事業の縮小は、単なる不採算事業の整理にとどまらず、レーザーテックの事業モデルを再定義する転換点であった。創業者・内山康が掲げた「世の中にないものをつくり、世の中のためになるものをつくる」という理念への原点回帰であり、岡林はこれを「技術で差別化できる市場に集中する」という経営戦略として具体化した。ファブライト経営のもとでは技術力こそが唯一の競争優位であり、その技術力を最も発揮できる市場を選び直す判断であった。この方針が、次のEUV検査装置開発への布石となった。