加工食品に参入
冷蔵倉庫業の付加価値限界と食品事業への転換を志向した新社長
終戦後のニチレイは、冷蔵倉庫業と水産加工を主業とし、水産会社の下請け的な立場に置かれていた。冷蔵・製氷という設備産業は安定収益を生む一方で、付加価値の源泉は限定され、売上成長には構造的な制約があった。1950年前後、日本経済は復興期に入り、都市部を中心に加工食品需要が徐々に拡大し始めていた。
1951年8月に社長に就任した木村幸鉱二郎氏は、日本水産出身で戦時中に帝国水産統制へ転籍した経歴を持つ人物である。木村氏は、保管と一次加工に依存する事業形態そのものに疑問を持ち、ニチレイを「設備を持つ会社」から「食品を売る会社」へ転換させる必要があると考えた。この問題意識が総合食品メーカー志向の起点となった。
当時のニチレイにとって、冷蔵倉庫は安定収益の基盤であったが、成長の天井が見えていた。新たな収益源として食品事業を育成するには、保管業から製造業への意識転換が不可欠であり、経営陣の交代がその契機を提供した。
水産食品から冷凍・缶詰・畜産まで五分野への投資拡大を決定
木村体制下でニチレイは、水産物に限定しない加工食品への参入を本格化させた。1950年代から1960年代にかけて、水産食品、冷凍食品、煉製品、缶詰、畜産食品の5分野に事業を拡張した。ただし、この段階では「どの食品に集中するか」は明確ではなく、事業ポートフォリオは試行錯誤的に広げられていた。
1961年度に始動した総合5カ年計画は、この方向性を資本配分で裏づけるものだった。5年間で累計170億円を投下し、主力だった冷凍関連に80億円、成長余地を見込んだ食品事業に90億円を配分した。売上構成では冷凍が中心でありながら、投下資本では食品へ傾斜させる判断が下された。
設備投資の中核は食品工場の再編であった。従来の食品工場は小規模かつ分散しており、品目別に効率を欠いていた。千葉県船橋に総合食品工場を新設し、ハム・ソーセージ、加工食品、缶詰などを一体で生産する体制が志向された。消費地近接という立地選択も量産と物流を意識した判断だった。
五分野の明暗が分かれ冷凍食品が成長の軸として定着
1960年代を通じて、5分野の事業展開は明暗が次第に分かれた。水産食品や缶詰は差別化が難しく、煉製品や畜産食品も専業メーカーとの競争に直面した。いずれの領域でも、ニチレイが後発として参入するには市場における独自の優位性が不足していた。
一方、冷凍食品では業務用市場を中心に展開し、自社保有の低温物流網を活用することで参入障壁を形成した。冷蔵倉庫業から継承した低温管理能力が、冷凍食品の製造・流通と親和性が高かったことが競争優位につながった。
結果として、総合食品メーカー路線は維持されつつも、1970年代以降は冷凍食品が成長の軸として定着した。分散的な事業展開は短期的には非効率であったが、各分野の競争環境を実地に検証する過程として機能し、後の冷凍食品への集中を導く判断材料を提供した。