重要な意思決定
19677月

正垣泰彦氏が飲食店を個人開業

背景

理系の大学生が研究者の道を断念し飲食業を選んだ経緯

サイゼリヤの創業者・正垣泰彦は東京理科大学物理学科に在籍し、当初は研究者を志していた。しかし国の研究所での卒論研究を通じて学者の道に情熱を持てないことを悟り、ゼロから事業を起こすならば食べ物屋が適していると判断した。1967年7月、千葉県本八幡に飲食店を個人開業したが、翌年に店舗で暴力団同士の喧嘩が起き、石油ストーブの投擲により店が全焼した。

焼失を機に1968年5月、正垣はイタリア料理店「サイゼリヤ」1号店を同じ本八幡で開業した。当時の日本では洋食が普及途上にあり、本格的なイタリア料理のチェーン店は皆無であった。正垣がイタリア料理を選んだのは、素材さえ良ければコックの腕に左右されにくいという仮説に基づいていた。美味しさの80〜90%は素材で決まり、温度と湿度の管理が5〜10%、調理技術は5〜10%に過ぎないという考え方であった。

ただし1970年代の日本は1ドル300円台の円安水準にあり、イタリアからの輸入食材は割高であった。乳製品、チーズ、トマト、オリーブオイル、ワインといった核となる食材の調達コストがボトルネックとなり、裏を返せば円安が参入障壁として機能し、競合の出現を抑制する構造でもあった。

決断

全メニュー半額という「最後の賭け」が転機に

開業から5年間、サイゼリヤは集客に苦戦した。青果店の2階という気づかれにくい立地に30平方メートルの小規模店舗を構え、1日の売上高は3万円前後にとどまった。家賃を差し引くと正垣兄弟への給与は実質ゼロであり、実家が医師の家系であったことによる資金援助がなければ継続は困難であったと推定される。

1975年頃、正垣は最後の賭けとして全メニューの半額化を断行した。スパゲティを200〜300円で提供するという当時としては破格の価格設定であった。正垣によれば、人間が「安い」と感じる閾値は相場の半額であり、消えてなくなる食べ物の価格は雑誌の値段の倍で決まるという「経験則」に基づく判断であった。週刊少年ジャンプ190円の倍が380円であり、それがサイゼリヤの価格帯と一致するという理屈であった。

半額化の結果、サイゼリヤは繁盛店に転じた。この経験から、飲食業において重視される「立地」を度外視し、相場の半額で提供しつつ食材原価に投資するという経営方針が確立された。1973年に株式会社マリアーヌ商会として法人化し、資本金1000万円でチェーン展開の基盤を整えた。

結果

悪立地・低価格・素材重視というサイゼリヤの原型

正垣が創業期に確立した方針は三つに集約される。第一に、一等地を避けて出店コストを抑える悪立地戦略。第二に、相場の半額を目安とする低価格設定。第三に、コックの腕ではなく素材の品質に投資するという原価配分の設計である。理系出身の創業者が「美味しさ」を科学的に分解した結果、食材調達を競争力の源泉とするビジネスモデルが形成された。

イタリア料理への特化は、仕入れの集約を可能にする構造的な利点を持っていた。多種多様なメニューを提供する一般的なファミリーレストランでは食材の品目が分散するが、イタリア料理に絞ることでチーズ、トマト、オリーブオイルといった共通食材をまとまった量で調達できた。この調達構造は、以後の海外からの直接輸入やオーストラリアの自社工場の設立へとつながっていく。

1970年代末にはドミナント方式での多店舗展開が始まるが、その土台はすべて創業期の10年間で形成されていた。正垣の理系的な思考が、飲食業の経験則を解体し、再構成した結果としてのビジネスモデルであった。