重要な意思決定
1959

丸ノ内総合改造計画を策定

背景

高度成長期に赤レンガ建築の老朽化がオフィス供給の制約に

1950年代に日本経済が高度成長期に突入するとオフィス需要は急速に拡大した。丸ノ内の馬場先門地区を中心に明治時代に建築されたイギリス式の赤レンガ事務所が密集していたが、地上2〜3階建の小規模建築は床面積が限られ、増大するテナント需要に対応できないボトルネックとなっていた。赤レンガ建築は築60年以上が経過して老朽化が進行し、設備面でも近代的なオフィスとしての要件を満たしていなかった。

加えて1950年代には欧米諸国で赤レンガ建築が「スラム街」を連想させるイメージが定着しつつあり、丸ノ内に入居する欧米企業のテナントが赤レンガのオフィスに拒絶感を示すようになった。三菱地所の渡辺武次郎社長はこの状況に衝撃を受け、赤レンガ街の大規模な再開発を決断した。丸ノ内を国際水準のオフィス街として再生するためには、明治時代の建築をすべて近代ビルに建て替える抜本的な対応が不可避であった。

決断

全赤レンガ建築を対象とした「丸の内総合改造計画」を策定

1959年に三菱地所は「丸の内総合改造計画」を策定した。丸ノ内に残るすべての明治時代の赤レンガ建築を取り壊し、31mの中層ビル群に建て替える再開発計画であった。1959年から1960年代後半にかけて赤レンガ建築は順次取り壊され、丸ノ内の街並みは統一された高さの近代的なオフィスビル群に一新された。ビルの高さを31mに統一した背景には、皇居を見下ろす超高層建築を回避するという渡辺社長の方針があった。

新設されたビル群については三菱グループの企業に優先的に賃貸された。財閥解体によって弱体化した三菱グループの結束力を、丸ノ内のオフィス街を核として修復する意図があった。三菱銀行・三菱商事・三菱重工業をはじめとする三菱グループ各社が丸ノ内にオフィスを構えることで、グループ間の連携が物理的に強化された。丸ノ内は三菱グループの求心力を担保する「場」として機能するようになった。

結果

丸ノ内の近代化と引き換えに超高層時代への対応を先送り

丸の内総合改造計画の遂行により、丸ノ内は明治時代の赤レンガ街から近代的なオフィス街へと全面的に刷新された。31mの統一された街並みは整然とした景観を形成し、日本を代表するビジネス街としての地位を確固たるものにした。三菱グループへの優先賃貸によってテナント基盤が安定し、三菱地所のオフィス賃貸収益は着実に成長した。

一方で31mの高さ制限は丸ノ内における床面積の拡大を制約した。1968年に三井不動産が超高層の霞ヶ関ビルディングを竣工すると、三菱地所は高層ビル開発で競合に後れをとる形となった。丸の内総合改造計画は赤レンガ街の近代化には応えたが、超高層時代への対応という次の課題を先送りにする結果ともなった。