渡辺武次郎氏が社長就任
叩き上げのプロパー社員が三菱地所の社長に就任
1952年に三菱地所の社長に渡辺武次郎氏が就任した。渡辺氏は三菱地所の叩き上げのプロパー社員であり、丸ノ内のオフィス開発に長年携わった経験を持つ実務家であった。社長就任後、渡辺氏は1959年にスタートする「丸の内総合改造計画」を主導し、明治時代に建築された小規模な赤レンガ事務所が密集する丸ノ内を近代的なオフィス街に一新する再開発を推進した。この功績から渡辺氏は三菱地所の「中興の祖」と呼ばれるようになった。
渡辺氏が再開発を急いだ背景には、赤レンガ建築に対する欧米テナントの拒否反応があった。1950年代に欧米ではレンガ建築がスラム街を連想させるイメージが定着しつつあり、丸ノ内に入居する欧米企業のテナントが赤レンガのオフィスに拒絶感を示すようになった。この事態を受けて渡辺氏は丸ノ内の赤レンガ建築の全面的な建て替えを決断し、すべての明治時代の建築を近代オフィスに置き換える計画を策定するに至った。
超高層ビルの建設に反対し丸ノ内の31m街並みを堅持
渡辺氏は丸ノ内の再開発において超高層ビルの建設に一貫して消極的な姿勢をとった。皇居を見下ろすことになるという美観上の理由が反対の根拠であり、丸ノ内の街並みを31mの中層ビルで統一する方針を堅持した。1968年に競合の三井不動産が日本初の超高層ビル「霞ヶ関ビルディング」を竣工すると、三菱地所は高層ビルの展開で三井に後れをとる形となった。
三菱地所の新丸ビルに隣接する東京海上が自社ビルの高層化を計画すると、渡辺氏は計画の中止を強く申し入れた。しかし東京海上は自社保有ビルの建て替えであるとして三菱地所の要求を退け、1974年に東京海上ビルディングを竣工した。この「美観論争」は建築業界や東京都を巻き込む議論に発展し、丸ノ内における高層建築の是非をめぐる社会的な論点となった。
渡辺氏の影響力が長期にわたり丸ノ内の高層化を制約
1969年に渡辺氏は社長を退いて会長に就任したが、その後も三菱地所の経営に関与し続けた。1974年に取締役相談役、1988年に相談役に就任し、1997年に103歳で逝去するまで約45年にわたって三菱地所の意思決定に影響力を及ぼした。この間、丸ノ内における丸ビルの建て替え計画(高層化)は進展が極めて遅く、渡辺氏の超高層反対の意向が経営判断に反映されていたと推定される。
渡辺氏の在任期間は、赤レンガ街の近代化という点では丸ノ内の価値を大きく向上させた。しかし超高層ビルの建設を回避し続けた結果、三菱地所は三井不動産に対して高層ビル開発で後手に回り、床面積の拡大とテナント収益の最大化という観点では機会損失が生じた。丸ビルの建て替えが正式に発表されるのは渡辺氏逝去の2年前にあたる1995年であり、長期政権の功罪が問われる経緯となった。