重要な意思決定
1894

三菱1号館を竣工・赤レンガ街の開発

背景

三菱合資会社が丸ノ内のオフィス街開発を派生事業として開始

三菱財閥は1893年に三菱合資会社を発足させ、貿易を中心とした業務を本業に据えた。丸ノ内のオフィス街開発は三菱合資会社が手がける「雑務」の一つに位置づけられ、専門部署がない状態で散発的に建築が進められた。不動産事業を担当する「地所用度課」が新設されたのは1906年であり、丸ノ内の買収から16年後、三菱1号館の竣工から12年後のことであった。不動産開発は三菱財閥の経営において副次的な事業として位置づけられ続けた。

丸ノ内の買収から4年後の1894年に三菱合資会社は最初のオフィス建築として三菱1号館を竣工した。建築様式にはロンドンのオフィス街を模したイギリス式レンガ建築が採用された。立地としては路面電車を活用した交通利便性が比較的高い「馬場先門通り」に面する区画が選ばれた。しかし東京駅が未開業という根本的な立地条件の悪さに加え、日本国内で会社組織が未発達でサラリーマンという働き方が一般的ではなかったため、テナント誘致は難航した。

三菱合資会社は1894年から1896年にかけて三菱1号館から3号館までの3棟を竣工した。しかし需要の低迷を受けて1896年から1904年までの9年間は新規建築を停止している。この間、買収済みの丸ノ内の広大な敷地の大半が「三菱ヶ原」として放置され、荒地のままオフィス街とは程遠い状態が続いた。三菱財閥にとって不動産は本業ではなく、重工業と貿易で収益を確保しつつ丸ノ内は長期的な開発対象として温存する方針がとられた。

決断

赤レンガ建築群を集中的に竣工して丸ノ内のオフィス街を形成

三菱合資会社が丸ノ内の開発を本格化させたのは1904年以降であった。1904年から1918年にかけて第4号館から第26号館に至る19棟のオフィス建築を集中的に竣工した。このうち1912年に竣工した第15号館までは地上2〜3階建のイギリス式赤レンガ建築であり、これらが馬場先門通りを中心に赤レンガ街を形成した。ロンドンのオフィス街を模した街並みが丸ノ内に出現し、三菱合資会社が志向した「一ロンドン」の構想が具体化した。

建築技術の進展に伴い、1914年竣工の第19号館からはRC(鉄筋コンクリート)ないしSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)による地上3〜4階建の建築に移行した。赤レンガ建築からRC/SRC建築への転換は耐震性と床面積の拡大を両立させる革新であった。丸ノ内においては赤レンガ街とRC建築が混在する街並みが形成され、明治末期から大正初期にかけての建築技術の過渡期を反映した景観が生まれた。

三菱合資会社による丸ノ内の開発は約30年にわたった。専門部署の不在と本業優先の経営判断により開発のペースは緩やかであり、需要の動向を見極めつつ散発的に投資するという手法がとられた。一気呵成ではなく30年の歳月をかけて段階的にオフィス街を形成する展開は、三菱財閥の資本力と長期的な視野が前提となるものであった。

結果

東京駅の開業により丸ノ内の立地条件が抜本的に改善

1914年に省線(後の国鉄・JR)が丸ノ内に中央停車場として東京駅を開業した。開業時点では山手線の環状運転はなく東海道本線のターミナル駅としての機能に限られたが、丸ノ内の立地条件を一変させる契機となった。買収から24年を経て丸ノ内は鉄道駅に直結するオフィス立地としての条件を獲得し、三菱合資会社は東京駅に近い区域の開発を加速させた。

東京駅の開業に伴い、従来の赤レンガ街が立地する馬場先門地区に加えて、東京駅前の区域でも近代的なオフィスビルの建設が進んだ。大正時代を通じてサラリーマンという働き方が普及し始め、オフィスに対する需要は着実に拡大していった。三菱合資会社はロンドン模倣の赤レンガ建築から、アメリカの近代ビル群を模範とした大規模オフィスの建設に方針を転換した。

1923年には東京駅前に丸ノ内ビルヂングが竣工し、丸ノ内は近代的なオフィス街としての地位を確立した。丸ビルは当時の日本では類例のない大規模オフィスビルであり、大正時代の建築を象徴する存在となった。三菱1号館の竣工(1894年)から丸ビルの竣工(1923年)まで約30年をかけて、赤レンガの小規模事務所が散在する荒地から近代ビルが林立するオフィス街へ、丸ノ内は段階的に変貌を遂げた。