重要な意思決定
18903月

三菱財閥が丸ノ内を一括買収

背景

明治政府が財政難で陸軍用地の丸ノ内一帯を売却に付す

丸ノ内は江戸城(皇居)に隣接する土地であり、江戸時代には有力大名の屋敷が連なる一等地であった。明治維新後に大名屋敷は存在意義を失い、明治政府は空き家となった屋敷群を陸軍の兵舎に転用した。ところが1872年(明治5年)に丸ノ内で大規模な火災が発生し、兵舎として利用されていた元大名屋敷の大半が焼失した。以降、丸ノ内一帯は雑草が生い茂る荒地として放置され、売却が検討される時点ではオフィス街とは無縁の焼け野原であった。

1889年に明治政府は陸軍の財政難を解消するため、丸ノ内の売却を決定した。皇居に隣接する土地が細分化されて意図しない人物の手に渡ることを避けるため、広大な敷地の一括売却が条件とされた。最低落札価格は150万円に設定され、これは東京市の年間予算3年分以上に相当する巨額であった。明治政府は三井や三菱を含む5〜6社の有力財閥に購入を打診した上で入札を実施したが、落札者は1社も現れなかった。

落札ゼロの最大の要因は立地条件の悪さにあった。当時、丸ノ内の周辺には鉄道が開業しておらず、交通アクセスが極めて不便な場所であった。1888年の東京市区改正条例により丸ノ内への中央停車場(東京駅)の設置が計画されていたが、開業時期は不透明であった。実際に東京駅が開業するのは1914年であり、入札から25年後のことである。交通利便性の低い荒地に東京市予算3年分の価格が設定されたため、各財閥は採算が取れないと判断した。

決断

三菱財閥が政府との関係維持を目的に採算度外視で買収を決定

落札者不在を問題視した明治政府は蔵相の松方正義を通じて三菱財閥に買収を打診した。当時ロンドンに赴任していた三菱総支配人の壮田平五郎は丸ノ内のビジネス街としてのポテンシャルを評価し、電報で三菱本社に買収を提案した。三菱の主力事業は貿易・鉱山・金融・重工業であり、日本政府を主要顧客として抱えていた。創業家の岩崎弥之助は政府との関係維持を優先し、オフィス街としての実現時期が不透明なまま採算度外視で買収を決定した。

1890年3月6日に三菱財閥は128万円を投じて丸ノ内一帯を一括買収した。巨額投資のため一括払いは困難であり、13ヶ月間に8回分割で支払う条件が付された。社内では「一体何の目的で、このような不用の地を買い取ったのか」と批判が噴出したが、岩崎弥之助は「竹を植えて虎でも飼うさ」と応じたとされる。短期的には政府とのコネクション維持、長期的にはビジネス街としての開発を見据えた二段構えの意思決定であった。

しかし買収後4年間にわたり開発は進まなかった。三菱財閥にとって本業は重工業と貿易であり、不動産開発は派生的な事業に位置づけられていた。東京駅の開業前はオフィス需要そのものが存在せず、128万円を投じた土地は「三菱ヶ原」と呼ばれる荒地のまま放置される状態が続いた。不動産事業を専門に担う部署(地所用度課)が三菱合資会社に設置されるのは1906年であり、買収から16年後のことであった。

結果

買収から30年を経てオフィス街が形成され超長期投資が結実

1894年に初のオフィス建築として三菱1号館が竣工した。ロンドンのオフィス街を模したイギリス式レンガ建築が採用されたが、東京駅未開業の立地下で賃貸経営は苦戦を強いられた。1894年から1896年にかけて3号館まで竣工したものの、その後9年間は新規建築が停止し、広大な敷地の大半は荒地のまま残された。本格的な開発が始まるのは1904年以降であり、1918年までに第26号館に至る19棟のオフィスが竣工して赤レンガ街が形成された。

1914年に東京駅が開業すると丸ノ内の立地条件は大きく改善された。三菱財閥は東京駅に近い区域の開発を加速し、1923年には東京駅前に近代的な丸ノ内ビルヂングを竣工する。買収から丸ビル竣工まで約30年を要しており、超長期の回収を前提とした不動産投資であった。2024年3月期時点で三菱地所の丸の内事業は年間営業収益3800億円を計上しており、買収時に採算度外視と批判された投資は日本最大のオフィス事業へと結実した。

丸ノ内の買収は三菱財閥史における最大の不動産投資であり、日本の都市開発における先駆的な事例となった。政府との関係維持を名目に取得した荒地が、東京駅の開業と会社組織の普及という外部環境の変化によって日本を代表するビジネス街に変貌した。三菱財閥の資本力によって30年間の赤字を許容し得たことが、この投資を成立させた最大の条件であった。結果的に丸ノ内は三菱地所の経営基盤の中核となり、130年以上にわたって収益を生み続けている。