三井不動産の反対を退け、ディズニーとの独占契約を締結
京成電鉄の経営危機と揺らぐ誘致計画
1970年代半ば、オリエンタルランドは存亡の危機にあった。筆頭株主の京成電鉄が千葉県内の不動産投資の失敗により経営危機に陥り、ディズニーランド誘致の旗振り役としての求心力を失っていた。浦安沖の埋立は1975年に完了していたものの、ディズニー社との正式な契約は依然として結ばれておらず、広大な更地だけが残される状況であった。
さらに、もう一方の大株主である三井不動産が1977年にディズニーランド誘致計画の中止を正式に要請した。三井不動産の立場からすれば、京成電鉄が経営不振にある以上、資金の裏付けのない計画を続ける合理性はなかった。埋立地を住宅用地として分譲し、不動産事業として着実に回収する方が堅実であるという判断であった。
三井不動産の中止要請は、オリエンタルランドの2大株主の一方が計画から降りることを意味していた。設立から17年を経て、浦安の埋立地は確保したものの、肝心のディズニー社との契約がないまま、計画の推進力となる資本と意思の両方が失われかけていた。
千葉県知事と組み、独断でディズニー交渉を続行
オリエンタルランド専務の高橋政知は、三井不動産の中止要請を受け入れず、ディズニー社との交渉を独断で続行する道を選んだ。高橋は千葉県知事と協力関係を築き、「すでに漁業権を放棄した漁民のメンツを立てるためにも、レジャーランドの建設は実現しなければならない」という論理で計画の正当性を主張した。
高橋と千葉県知事の連携には、三井不動産の反対を封じる政治的な狙いもあった。千葉県が計画の後ろ盾になることで、民間企業間の出資者対立を行政の支援という枠組みで乗り越えようとした。高橋は1978年に社長に就任し、経営の意思決定権を掌握した上で、ディズニー社との交渉を加速させた。
ディズニー社側は当初、日本市場への関心が薄かったが、オリエンタルランドが東京都心から電車で約15分の場所に広大な土地を所有している点を評価した。1979年4月、ウォルト・ディズニー・プロダクションズとの間で「東京ディズニーランドの建設および運営に関する基本契約」が締結された。オリエンタルランドが日本国内におけるディズニーテーマパークの独占運営権を取得する代わりに、チケット収入の約10%、商品販売・飲食収入の約5%をロイヤリティとして支払う契約であった。
出資なし・ロイヤリティ方式という世界唯一の契約
この契約は、世界のディズニーリゾートの中で唯一、ディズニー社からの出資や資本参加が一切ない形態であった。当時のディズニー社は経営不振にあり、海外への自社投資余力がなかったことに加え、日本の不動産規制や法的環境の複雑さもあり、ライセンス方式が選択された。結果として、オリエンタルランドはロイヤリティを支払う代わりに利益の大半を自社に留保できる構造を手にした。
契約締結後、1979年に日本興業銀行がオリエンタルランドへの約1,000億円の協調融資を決定した。当時の日本のテーマパーク市場規模が約1,000億円と言われた時代に、市場規模と同額を単一施設に投資するという判断であった。1980年12月にTDLの建設が着工され、約3年の工期を経て1983年4月15日に東京ディズニーランドが開園した。初年度の入園者数は993万人に達した。
高橋政知が三井不動産の反対を押し切って勝ち取ったこの契約は、オリエンタルランドの事業構造を半世紀以上にわたって規定することになる。2018年にはライセンス契約が2076年まで延長され、オリエンタルランドは向こう50年以上にわたりディズニーブランドの独占運営権を保持し続ける。ディズニー社にとっては投資リスクなしで安定的なロイヤリティ収入を得られ、オリエンタルランドにとっては経営の自主性と利益の大部分を確保できる。この構造は、1977年の危機的状況において高橋が「撤退しない」と決めたことから始まった。