重要な意思決定
19607月

浦安沖の埋立とオリエンタルランドの設立

背景

京成電鉄社長が米国で見た"夢の国"

1958年、京成電鉄社長の川崎千春は仕事で渡米した際に、カリフォルニア州アナハイムのディズニーランドに立ち寄った。園内の徹底した世界観と家族連れの熱狂を目の当たりにし、「こんな世界を日本の子どもたちにも見せてやりたい」と強く感じたという。当時の日本にはテーマパークという業態自体が存在せず、遊園地といえば百貨店の屋上や浅草花やしきのような小規模施設が主流であった。

川崎がディズニーランド誘致を構想した背景には、京成電鉄の沿線開発という事業上の動機もあった。京成電鉄は上野と成田を結ぶ私鉄であり、沿線人口の増加と観光需要の創出が経営課題であった。東京近郊にディズニーランド級の集客施設を誘致できれば、沿線の不動産価値と鉄道利用者数を同時に押し上げることができる。

川崎は三井不動産社長の江戸英雄にこの構想を持ちかけ、1959年に「オリエンタルランド設立計画趣意書」をまとめた。計画の核は、千葉県浦安沖の漁場を埋め立て、商業・住居地区の開発と一大レジャーランドの建設を一体で行うというものであった。当時の浦安は東京に近い漁村であり、広大な遠浅の海面が未利用のまま残されていた。

決断

漁場を埋め立て、3社出資で会社を設立

1960年7月11日、京成電鉄(36%)、三井不動産(32%)、朝日土地興業(32%)の3社の出資により、資本金2億5,000万円で株式会社オリエンタルランドが設立された。初代社長には川崎千春が就任した。会社の事務所は東京上野の京成電鉄本社5階に置かれ、机が3つ、役職員は3人という体制で事業が始まった。

オリエンタルランドの目的は、浦安沖の海面を埋め立てて商住地域を開発し、そこに一大レジャーランドを建設することであった。ただし、この時点でディズニー社との接触は本格化しておらず、1961年に川崎がディズニー本社を訪問したものの、幹部1人と面会しただけで何の進展もなかった。ディズニー側は日本市場に関心を示さず、構想はあくまでオリエンタルランド側の一方的な願望にすぎなかった。

設立直後のオリエンタルランドに課せられた最大の仕事は、浦安沖の漁場を埋め立てるための漁業補償交渉であった。1962年に千葉県との土地造成事業協定を締結し、1964年から埋立工事が開始された。しかし、その前提として漁業権を持つ地元漁師との補償交渉を成立させなければならず、この難交渉を任されたのが専務の高橋政知であった。

結果

酒席外交で漁業補償を成立させた高橋政知

高橋政知は1960年から浦安の漁業関係者との補償交渉に着手した。漁師にとって漁業権の放棄は生活基盤の喪失を意味し、交渉は容易ではなかった。高橋は連日連夜、漁業関係者と酒席を共にして信頼関係を築いた。酒豪として知られたが、実際にはトイレで酒を吐き出して酔いを抑える工夫をしながら、飲み比べで相手に一目置かれるよう立ち振る舞った。

高橋の交渉術の核心は、一人一人を説得するのではなく、組織を取りまとめる「影の実力者」を先に特定し、その人物を優先的に説得するキーパーソン戦略にあった。漁業組合の表向きの代表者ではなく、実質的に意思決定を左右する人物を見極め、その人物との信頼関係を梃子にして全体の合意形成を図った。

1964年、漁業補償交渉は契約締結に至った。これにより浦安沖の埋立工事が本格的に進み、1975年に造成が完了する。設立から埋立完了までに15年を要したが、この間にオリエンタルランドは東京近郊に広大な土地を確保した。ディズニーランドの誘致はまだ実現していなかったが、「都心から15分の場所に広大な土地を持つ」という事実が、後のディズニー社との交渉における最大の武器となる。