都市圏を中心に多店舗展開を本格化
銀座の成功が生んだ出店需要と都市圏限定の判断
1971年7月の銀座三越1号店の成功により、全国の百貨店や商業施設から出店の引き合いが相次いだ。しかし日本マクドナルドは出店地域を東京・大阪・名古屋の三大都市圏に限定する判断を下した。宣伝部長の高木一夫が語るように、テレビCMへの広告投資は「蓄積」によって効果を発揮するものであり、広告活動の蓄積がない地方に1店舗だけ出しても、広告販促の恩恵を受けられないという計算であった。
加えて、藤田田はフランチャイズではなく直営による拡大を選んだ。米マクドナルドが重視するQCD(Quality・Cost・Delivery)を日本でも徹底するには、本部の教育が行き届く直営体制が不可欠だという判断であった。1971年にはハンバーガー大学を設置し、店舗運営人材の育成を体系化した。フランチャイズによる急速な展開よりも、直営による品質管理を優先する方針は、1970年代を通じた都市圏ドミナントの基盤となった。
ゼンチクとの仕入契約で供給のボトルネックを解消
多店舗展開における最大のボトルネックは原材料の調達であった。1号店の開業当初は牛肉を米国から冷凍品で輸入していたが、店舗数の増加に伴い輸入だけでは間に合わなくなった。農林水産省が半製品の輸入に難色を示すという規制上の問題も加わり、国内での調達・加工体制の構築が急務であった。
1972年5月、日本マクドナルドは生肉専門商社のゼンチク(現・スターゼン)と本格的な取引契約を締結した。ゼンチクの取締役・近藤氏が日本マクドナルド設立の新聞記事を見て藤田に取引を持ちかけ、1号店でオーストラリア産パティを納入して信頼を築いた経緯があった。1972年7月にはマクドナルド専用の千葉工場を新設し、米マクドナルドのノウハウを導入して15〜45店舗分の牛肉需要を賄える体制を整えた。この供給基盤のもとで店舗数は1974年末に58店舗、1976年末に105店舗、1979年末に212店舗へと拡大した。