重要な意思決定
ストライキが発生・労使関係が悪化
背景
急成長の裏で工場の従業員管理が手薄となり労使関係が悪化
三洋電機は工場の稼働率を高めるためにベルトコンベアーを導入するなど生産コストの引き下げに注力した一方、工場の従業員管理は手薄であった。三洋電機労働組合が出版した「おれらはここに立つ」(1960年)には、体調不良者への出勤強要や低賃金への不満、工場長による怒号が常態化していた様子が記されている。内容の真偽は検証が困難だが、少なくとも経営陣と生産現場の関係が円満であったとは言い難い。
1950年代を通じて労使対立が深刻化し、1958年に従業員は労働組合を結成して工場勤務を放棄するに至った。販売の機会損失は30億円、直接損害は約10億円に及び、三洋電機の創業以来最大の経営危機をもたらした。事業拡大を急いだ代償が労使関係の崩壊という形で顕在化したのである。
決断
東京三洋電機の設立と経営方針の転換で労使問題に対処
三洋電機の創業家は関西地区での生産拡充を諦め、1959年に東京三洋電機を別法人として設立した。群馬県大泉町の旧中島飛行機跡地に東京工場を新設し、関西との賃金差(約3割安)を活かす方策をとった。三洋電機が全国統一賃金の原則を労働組合と合意していたことから、人件費の削減には法人を分離する必要があった。
創業者の井植歳男は事業規模の拡大を急ぎすぎたことを反省し、1961年に新たな経営方針を発表した。同年中に工場の長期ロックアウトを実施したことで労働組合内部の足並みが崩れ、過激な活動は徐々に収束に向かった。この労使問題は三洋電機の生産拠点の配置と経営体制に長期にわたる影響を残すこととなった。