三洋電機製作所を創業
松下電器の重役として創業期を支えた井植歳男が公職追放の対象に
井植歳男は松下幸之助の妻の弟にあたり、1917年に松下電器が創業した当初から事業に参画した人物である。セールスや工場長など幅広い業務を担当し、1935年の株式会社化に伴い専務に就任した。松下電器の創業期における中核的な重役として約30年間にわたり同社の事業拡大に貢献し、松下電器の経営において井植歳男の存在は不可欠なものであった。
1945年の終戦後、GHQが実施した財閥解体により松下電器は制限会社に指定された。松下電器の重役であった井植歳男も公職追放の対象となり、同社での事業活動の継続が困難になった。松下電器で約30年間にわたり蓄積してきた経営の知見とものづくりの技術を活かす場を、井植歳男は松下電器の外に求める必要に迫られることとなった。
3兄弟の総力を結集し大阪で三洋電機製作所を創業
公職追放が決定した井植歳男は松下電器からの独立を決断した。1947年1月に大阪府守口において「三洋電機製作所」を創業し、松下電器から譲り受けた兵庫県の北条工場で自転車用発電ランプの製造を開始した。社名の「三洋」は太平洋・大西洋・インド洋の3つの海洋に由来しており、創業当初から将来のグローバル展開を見据えた社名を採用している。
経営体制は井植歳男を筆頭に、弟の井植拓郎(専務)と井植薫(常務)の3兄弟で構成された。国内市場では松下電器がすでに全国的な販売網を形成していたため、後発の三洋電機は松下電器との直接競争を避けて海外輸出に活路を見出す方針をとった。松下電器との間に資本関係は存在しなかったが、北条工場をはじめとする一部の生産設備は松下電器から継承したものであった。
発電ランプで国内シェア約70%を確保し総合家電メーカーへ多角化
創業後は自転車用発電ランプの製造に専念し、当時国内に17社あった競合メーカーとの価格競争を展開した。生産コストの引き下げに注力した結果、1950年には発電ランプで国内シェア約70%を確保するに至った。海外ではインドネシアと台湾を中心に創業初期から輸出を行い、国内外の販売数量を積み上げることで大量生産によるスケールメリットを追求した。
発電ランプで得た利益を設備投資の原資として、1951年にラジオ、1953年に噴流式洗濯機と家電分野への多角化を進めた。1950年4月には資本金2000万円で三洋電機株式会社として法人化し、1954年には大阪証券取引所への株式上場を達成した。自転車ランプの専業メーカーから、ラジオ・洗濯機を主力とする総合家電メーカーへと事業領域を拡大していった。