重要な意思決定
19819月

日本ソフトバンクを設立

背景

パソコン普及でソフトウェアが急増するも流通基盤を欠いた1980年代初頭

1980年前後、日本国内ではパソコンが急速に普及し、ゲームから表計算まで多様なソフトウェアが開発されるようになった。しかし、ソフトウェアの流通基盤は未整備であり、小売店は個別にメーカーから仕入れるため品揃えが限定され、消費者は複数の販売店を巡回しなければ目当てのソフトを入手できない状況にあった。書籍であれば取次を介した流通網が確立されていたのに対し、ソフトウェアには卸売機能を担う事業者がほぼ存在しなかった。

孫正義氏(当時23歳)はこの流通の空白に着目した。米国留学中にパソコン産業の勃興を目の当たりにし、帰国後に自動翻訳機の特許をシャープに売却して創業資金を確保していた。1981年9月、株式会社日本ソフトバンクを福岡市で設立し、本社は日本警備保障(セコム)のオフィスに間借りする形で始動した。創業時の事業目的には「ソフトウェアの商品化支援、各種ショーへの出展、PR活動、専門誌・情報誌の発行」が掲げられた。

ソフトウェアの卸売業という事業領域は、ソフトハウスと小売店を結びつける中間流通を担う構想であった。書店で書籍を購入するのと同じ感覚で、消費者がパッケージソフトを入手できる仕組みを構築することが、創業期のソフトバンクが目指した事業モデルであった。

決断

専門雑誌の発行と人脈ネットワークの活用による創業期の事業基盤構築

ソフトバンクは卸売業と並行して、1982年に出版事業に参入した。専門雑誌を通じてソフトウェアの存在を消費者に訴求する狙いであり、流通と情報メディアを一体で運営するビジネスモデルを志向した。ただし、パソコン雑誌の市場ではアスキーが先行しており、1980年代を通じて競合関係が続いた。

経営体制の構築においては、孫正義氏の年齢と経験の不足を補うため、日本警備保障の元副社長・大森氏をスカウトし、孫氏が会長、大森氏が管理担当として参画した。大森氏の招聘が実現した背景には、シャープ副社長の佐々木氏が孫氏の発明を高く評価し、財界への紹介を行ったことがあった。1983年5月には東京商工会議所にて「大森君と孫君を歓迎する会」が催され、野村証券社長の田淵氏を発起人として、日本電気社長の関本氏、CSK創業者の大川氏など約1000名の経済人が参加した。

23歳の創業者が財界の重鎮から直接的な支援を取り付けた点は特異であった。ただし、1983年からは孫氏の病気療養により大森氏が社長を務める体制となり、経営方針の相違から1986年に大森氏は社長を解任されている。

結果

設立2年目で月商4億円に到達し、ソフトウェア流通の基盤を確立

創業から2年が経過した時点で、ソフトバンクの月商は4億円に達し、正社員150名・臨時雇用60名の陣容に成長した。取り扱うソフトウェアは8000種(200社)に及び、販売先のソフトバンク加盟店は2600店を数えた。卸売業者として、ソフトハウスと小売店の間に位置する中間流通のポジションを確保したことになる。

設立4期目の1985年12月期には売上高115億円を突破した。ソフトウェアの種類が爆発的に増加する中で、ソフトバンクが流通を一手に引き受ける構造が形成され、規模の拡大とともに取引先の囲い込みが進んだ。出版事業による情報発信と卸売業による物流を組み合わせたモデルは、ソフトウェア市場の拡大と連動して成長した。

ただし、1990年代に入るとソフトウェアのパッケージ販売市場そのものが変容し、ソフトバンクは流通業から投資事業への転換を進めることになる。1994年の株式公開を経て、企業買収とベンチャー投資を本格化させた同社にとって、創業期の卸売事業は、事業転換の原資と取引先ネットワークを提供する基盤として機能した。