重要な意思決定
19776月

賀来龍三郎氏が代表取締役社長に就任

背景

電卓事業の失敗と前田社長の急逝が重なった経営危機

1975年にキヤノンは電卓事業の不振により無配に転落し、電卓事業からの撤退を余儀なくされた。1967年に策定した「右手にカメラ、左手に事務機」の多角化方針のもとで電卓・複写機・半導体焼付装置・事務用コンピュータなど複数の事業を立ち上げていたが、電卓は1970年代の価格競争の激化により採算が悪化し、多角化戦略の見直しが迫られた。カメラ事業も中級機ブームの一巡と経済不況により成長が鈍化しており、キヤノンは成長の牽引役を欠いた状態にあった。

この経営混乱の最中に前田社長が急逝し、キヤノンは後継者の選定と経営再建を同時に迫られる事態に直面した。副社長や専務といった通常の昇格順序を飛び越え、1977年6月に常務であった賀来龍三郎(当時51歳)が代表取締役社長に就任する異例の人事が行われた。賀来は九州大学経済学部を卒業後、1954年にキヤノンに入社した生え抜きであり、1974年に常務に就任してからわずか3年での社長抜擢であった。

決断

事業部制の導入と事務機への研究開発投資の集中

賀来社長は就任後、前任の経営体制を「どうしても経営に甘さが出ていた」「経営が下手になってしまっていたんです」(1985年2月4日・日経ビジネス)と公言し、組織と事業の両面で改革に着手した。組織面では事業部制を導入し、カメラ・事務機・光学機器の各事業部に損益責任を持たせる体制に移行した。事業部ごとの収益を可視化することで不採算事業を早期に特定し、成長事業への資源配分を加速させる体制を構築した。

事業面では、分散していた多角化の方針を整理し、研究開発投資を事務機分野に集中させる決断を下した。カメラに次ぐ収益の柱として複写機とプリンターの開発を急ぎ、1985年には米HP社と業務協力提携を締結してレーザービームプリンター(LBP)のOEM供給を開始した。自社ブランドでの販路開拓ではなく、HP社という世界最大級のIT企業をOEM先に選ぶことで、販売コストを抑えつつグローバル市場を一気に取り込む戦略であった。

結果

事務機牽引の収益構造への転換と連結売上高1兆円の突破

賀来社長の在任10年間(1977年〜1987年)を通じて、キヤノンはカメラメーカーから事務機メーカーへの事業構造転換を実現した。LBPの世界シェアは1990年時点で70%に達し、売上高は4,000億円を超えた。HP社向けの販売高はその後も拡大を続け、FY2002には6,110億円を記録する。カメラ事業に依存していた収益構造は事務機が牽引する体制へと転換し、連結売上高は1兆円を突破した。

1987年に賀来氏は会長に退き、後任にバトンを渡した。無配転落から10年で連結売上高1兆円企業に変貌した過程は、電卓撤退後の経営危機を事務機への集中投資で乗り越えた結果であった。専務と副社長を飛ばした抜擢人事で就任した賀来社長が、事業部制の導入と事務機への投資集中という2つの改革を推進したことで、キヤノンの事業基盤は根本的に転換した。