1933年 精機光学研究所を創業
ライカ代替の35mm国産高級カメラを志向し、吉田・内田・御手洗の三者で創業
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 創業者は映写機技術者の吉田五郎。1933年11月、東京・六本木のアパートでライカ代替の国産高級カメラ「Kwanon(観音カメラ)」試作を目指し精機光学研究所を発足した。証券マン・内田三郎が初期経営と販路開拓を担い、産婦人科医・御手洗毅が資金援助。1937年の法人化を機に御手洗が経営の中心に立ち、事業拡大を主導した。
- 戦時下は陸海軍向け精密機械の需要を捉え業容を拡大、目黒工場で量産体制を整え軍需企業として組織規模を拡大。これが終戦直後の株式上場(1949年)への布石となった。
- 事業拡大における最大の意思決定は、米国市場への注力。独自ブランド「Canon」で高級カメラ輸出に転じ、1951年に英ジャーデン社と5ヵ年輸出契約・50万ドル借入で下丸子本社工場を新設。スケールメリットを享受しながら、売上利益率10%超の高級機特化の収益体質を築いた。
ライカ代替の国産化から出発し、終戦後は「外国品の防衛」を使命に掲げ、信用を欠く Made in Japan の汚名返上を担って輸出主導へ転じた。
産婦人科医・御手洗の個人資金で出発、1937年に資本金100万円で法人化、戦後の上場公募を経て、1951年は50万ドル借入で本社工場建設に踏み切った。
1934年に試作1号機「Kwanon」を発表、欧米進出を見据え翌年「Canon」へ改名、戦後は高級カメラに特化し売上利益率10%超の収益体質を築いた。
創業初期は国内写真店経由の少量販売にとどまったが、1951年に英ジャーデン社と5ヵ年輸出契約、1955年にはNY支店設置で米国市場へ直接届くようになった。
創業時は技術者・医師・証券マンの数名体制から出発、1950年には623名、1955年は下丸子工場新設を経て985名と十数年で組織を一気に膨らませた。
六本木アパートの一室で創業、1936年に目黒工場で量産体制を整え、1951年には資本金の10倍にあたる2億円を下丸子本社工場に投じる賭けに出た。
創業に由来する土地いかにして創業地の六本木から、現本社の下丸子に至ったか?
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1934年ごろ なぜ創業者・吉田五郎はわずか1年で離脱したのか? | 信仰由来の和語ブランド「KWANON」を支持する吉田と、近代的な高級カメラには合わないと判断した内田の間で方向性が分かれ、吉田自身がカメラの進路から外れていく感覚を覚えて研究所を去ったという。 創業者の吉田五郎は映写機技術者として1920年代から独製ライカを分解研究し、国産高級カメラの試作を主導してきたという。1933年に内田三郎・御手洗毅と精機光学研究所を立ち上げ、試作1号機「Kwanon(観音カメラ)」を世に出している。観音信者で経典に通じており、レンズ名「KASYAPA」も大迦葉から採ったとされる。 ところが昭和9年秋、内田が「近代的な高級カメラに信仰由来の和語名はそぐわない」と判断して再検討に入ると、吉田はカメラの進路が自分から逸れていくのを感じ、研究所を去ったという。社史によれば、創立以来わずか1年に満たぬ短時日の出来事であった。 |
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| 1942年ごろ なぜ産婦人科医が経営者になったのか? | 内田三郎の妻の出産を執刀した縁から創業時の資金提供を引き受け、当初は経営の表に立つことを避けていたが、戦時下の情勢に押される形で1942年に社長就任に至ったという。 昭和3年に北大医学部を卒業し、産婦人科医として聖母病院に勤めていた御手洗は、内田三郎の妻の出産を執刀した縁から、創業時の資金提供を引き受けたという。本人は「会社経営の表面にはなるべく出たくなかった」と語っているが、戦時下の情勢に押される形で、昭和17年に社長へ就任している。 朝6時に家を出て板橋・目黒の両工場を回り経営を見たうえで病院に戻り診療するという、二足のわらじの日々が続いたという。「いまにして思うと、よくからだがつづいたな」と本人が振り返るほどの献身が、医業と精密工業を結びつけたといえる。 |
| 1935年 なぜ「KWANON」を「CANON」に改めたのか? | 信仰由来の和語名が近代的な高級カメラには合わないと内田三郎が判断し、海外市場も意識して、判断の基準・聖典を意味する英語「CANON」へと改めたという。カンノンの音の響きは残されている。 創業時のカメラ名「カンノン(KWANON)」は吉田五郎の観音信仰から生まれたといわれ、千手観音のマークと、火炎にKWANON文字を組み込んだ意匠で打ち出されていた。 しかし内田三郎は、近代的な高級カメラに信仰由来の和語名はなじまないと判断し、昭和10年(1935年)に「キヤノン CANON」へと改めている。CANONは判断の基準・聖典を意味する英語で、正確を旨とする精密工業の商標とも相性がよかったという。カンノンの音の響きを残しつつ、海外市場を見据えた語へと切り替えている。 |
| 1951年6月 なぜ資本金の7倍規模の工場新設が可能だったのか? | 第一生命・興銀・富士・安田火災・共栄火災・住友など複数金融機関の協調融資で1.4億円を調達したという。なかでも興銀融資第2部の中村金夫が産業振興の視点から特に尽力したとされる。 1951年6月、大田区下丸子の旧富士航空計器跡地(土地7,000坪・建物7,047坪)を9,000万円で取得し、改装費5,000万円を加え計1.4億円を投じている。資本金2,000万円の7倍規模に達する賭けであったという。 資金は第一生命保険・日本興業銀行・富士銀行・安田火災・共栄火災・住友銀行から調達されたとされ、なかでも日本興業銀行融資第2部の中村金夫(後の頭取)が産業振興の視点から特に尽力したという。改装は三井再男が担当し、職場ごとに基調色を分けるカラーコンディショニングを採用、当時としては先進的なモダン工場として再生したといわれる。 |
| 1951年11月 ジャーデン社との契約はなぜ下丸子工場の財源になったのか? | 輸出総代理店契約に50万ドル借款を抱き合わせ、市中金利を下回る好条件で資金を確保したという。調達額はそのまま、直前に取得していた下丸子本社工場の借入返済に充てられている。 1951年11月、英国の世界的貿易商社ジャーデン・マセソン社が、外国人バイヤーの間でのキヤノン製品の好評を理由に、輸出総代理店契約を申し入れてきたという。代償は30万ドル借款で交渉が進んでいたが、最終段階で御手洗は急に50万ドルへの引き上げを要求している。 「俺の目をよく見て欲しい。人をだますような目はしていないだろう」と粘り、ポロック東京支店長らは仰天しつつもこれを呑んだという。市中金利を下回る好条件で調達された資金は下丸子工場の借入返済に充てられ、以降5年間、製品の70%を同社へ供給する契約となっている。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた
人間の運命というものほど予測しがたいものはない。私のごときもそのとおりであって、昭和三年の春に北大の医学部を出てから産婦人科の医者をしていた。そのころ私は会社を経営するなどとは夢にも考えなかった。ところが昭和八年ごろふとした動機から、これからの日本は精密工業で立つべきではないか、精密工業とすれば、われわれはその先端をいこうと考えた。当時はドイツがライカ・カメラというものを押し出してきた時代であるが、日本でもああいうものができるのではないか、というのが事の始まりであって、当時の私の若さというか、向う見ずというか、ともかくやってみようということで、同志的結合によってスタートしたのであった。(略) 私は当時私自身の病院を経営していたので、会社経営の表面にはなるべく出たくなかった。しかし当時の情勢はそういうことを許さず、とうとう昭和一七年には社長として名前も出し、名実ともに自分の思うとおりにやるというような運命になった。ところが、病院と会社と両方掛持ちしているので、朝は少なくとも六時には家を飛び出して板橋と目黒の両工場に顔を出していろいろと経営上の間題と取り組み、それから病院に帰ると患者がいっぱい待っていて今度は治療や診断にあたるというふうに、いまにして思うと、よくからだがつづいたなと思うような毎日を過ごしていたのである。
考えに考え抜いた結果私は、今後の日本の再建は輸出の振興にもっぱら依存すべきであるということ、そして、日本人の頭脳は欧米人に比べてけっして劣っているとは思わない、ということから、やはり高級カメラをつくってその技術を海外に売る以外にないと結論した。
さてこういう結論を実行に移すについて、まずなんといっても先だつものは資金である。そこで私は銀行に金融を頼みに出かけていった。ところが銀行側では「いま日本は食えるか食えないかのせとぎわだ。なべかまさえない当節に、高級カメラをつくろうなどとは唐人の寝言だ」といってなかなかとり上げてくれない。そこで私は「いや、あなたのほうが唐人の寝言だろう。敗戦日本が立ち上がる道はただ輸出以外にはない。資材は日本にある。だから金融さえつけば、われわれは技術を売ってかならず輸出を伸ばしてみせる」と粘りに粘って、とうとう融資を約束させることができた。
以来私どもは輸出ということに重点をおいて今日まできている。今日貿易の自由化が各方面で大きな問題になっているが、私どもにとってはとうの昔から自由化の時代があったわけである。そして実際の数字をみてもわかるように、かつてのカメラ王国であったドイツを相手にして、日本のカメラ界は生産数量においてすでに優位に立ち、また輸出伸長度においても日本のほうがはるかに大きくなっている。
しかし輸出市場で勝つためにはどうしても技術で優位を占めることが必要前提となる。しかも、技術の優位ということはたんにカメラ設計の面だけにとどまらず、アルミやしんちゅうなどの金属素材はもちろん、レンズやレンズ素材の面においてもすぐれていることが必要であって、それらがすべて総合されてはじめてりっぱな技術の力になる。さいわいにもレンズはかつてはドイツから素材を輸入した時代があったが、現在では日本においてすでに十分優秀な光学ガラスを製造することができるようになっており、アメリカから光学ガラスの注文がくるほどに発達している。
この吉田が目指すカメラとレンズには独特の名称が付けられた。カメラ名は「カンノン」(KWANON)、レンズ名は「カサパ」(KASYAPA)である。吉田は観音信者であり、最初はレンズ名もカンノンを予定していたが、一つ合点のいかぬところがあったらしく、経典を繰って考えた末、カサパを選んだということである。 現世利益を施す観音様とは直接的には関係のない名前が浮上したのであるが、このカサパはブッダの弟子で、教団の最長老として知られているマハーカシャパ、大迦葉のことである。後に聖典の編集を指導した尊者と伝えられている。 とにかくカンノンという名は信仰から発したもので、ぜひ付けたいと思っていたらしくマークも千手観音を元絵にして、火炎はKWANON文字をあしらっている。それに対してKASYAPAは、音感から選んだのか、文字面から選んだのかハッキリしないが、カシャ、パッと被写体を写し止めるシャッターの響きがあり、妙を得ている。この辺にも吉田の感覚が生きているといえよう。
これよりさき、精機光学研究所では、カメラの商品名について再検討が加えられていた。吉田の信仰から生まれた「カンノン」を内田は近代的な高級カメラのイメージになじまないとして退け、同時期吉田は、カメラの進路が自分からそれていくのを感じ、昭和9年(1934年)の秋、自ら研究所を去り、縁も切れた。精機光学研究所創立以来、わずか1年に満たぬ短時日であった。 一方内田は、カンノンに代わるブランドとして「キヤノン CANON」を決定した。CANONには判断の基準、聖典等の意味があり、正確を基本とする精密工業の商標にふさわしいものである。その元はカンノンにあることは、発音からも否定できない。
土地面積2万3,100m²(7,000坪)、鉄筋コンクリートの建物2万3,255m²(7,047坪)で、買収価格は9,000万円であったが補修改装費に5,000万円を要し、計1億4,000万円となった。これらは自己資金および金融機関からの借入金により賄われた。 その借入先は、生命保険業界の雄である第一生命保険(相)、国民経済的視野から産業振興のため積極的に支援した(株)日本興業銀行、メインバンクの(株)富士銀行、また安田火災海上保険(株)、共栄火災海上保険(相)、(株)住友銀行で、この融資に当たって特に尽力されたのは、(株)日本興業銀行融資第2部の中村金夫(現頭取)であった。 取得した工場の改装に当たっては三井再男が担当し、当時としては珍しい職場ごとの基調色を設けてカラーコンディショニングされ、モダンな工場にと仕上げられた。同工場の売買契約は51年6月に成立、ただちに改装工事に着手し、完了後の同年11月1日、銀座に進出していた本社部門(サービスステーションのみ残留)、そして目黒、板橋の両工場からの下丸子新本社工場への漸次移転が行われた。
その相手先は、イギリスの世界的な貿易商社ジャーデン・マセソン社で、輸出総代理店として契約したい旨の申し出であった。同社は、第二次世界大戦後もアジアを中心に世界各地で手広く貿易を営んできたが、外国人バイヤーの間でキヤノンのカメラがすこぶる好評であるのに目をつけ、当社への申入れとなったものである。 御手洗ら経営幹部は、その申入れを検討した結果、同社に対して総代理店(Sole Agent)の地位を与え、その代償として30万ドルの借款を受けることで交渉が開始された。交渉が最終段階にさしかかった際、御手洗は突然30万ドルの借款を50万ドルに引き上げて欲しい旨を要求した。交渉相手のポロック同社東京支店長、荻野総支配人は仰天したが、やがてその条件を呑み、50万ドルの借款、総代理店契約が成立した。 「30万ドルを急に50万ドルにと、突然こっちが切り出したもんだから、相手はそりゃあ相当びっくりしたさ。こっちはどうしても50万ドル必要だから、俺の目をよく見て欲しい。この俺の目は人をだますような目はしていないだろう、といったんだ」と、御手洗はその時のことを語っている。 この話が功を奏したか否かは別として50万ドルが、しかも市中金利を下回る好条件で借り入れられることになった。調達された資金は、下丸子本社工場を購入の際、金融機関よりの借入金に対して、早速、返済金として充てられたことはいうまでもない。51年11月1日付けで成立した契約により、当社は52年度以降5年間にわたって製品の70%を同社に供給することになった。
参考文献
- キヤノン社史
- 有価証券報告書
- 新日本経済 1950/10/20
- ダイヤモンド 1956/10/23
- 私の経営理念 : 一流企業の首脳は語る, 1956
- キヤノン史 : 技術と製品の50年, 1987/12