1933年11月、映写機技術者の吉田五郎氏と証券業の内田三郎氏が、東京麻布六本木のアパートの一室に精機光学研究所を興した[1]。掲げた目的は精密高級35ミリカメラの研究と製作[2]であり、当時この領域は舶来品が占めていた。資金を出したのは、内田氏の妻の出産を担当した聖母病院の産婦人科部長・御手洗毅氏である。1935年に苦心の研究が実って製品化にこぎつけ[3]、はじめ千手観音にちなむ『Kwanon』と名付けたものの、まもなく『Canon』へ改めている。聖典・規範・標準を意味する語であり、標準となる優秀なカメラをつくるという理想[4]を託した。1936年に目黒へ工場を新設して量産へ移り、1937年8月には資本金100万円で精機光学工業株式会社へ改組[5]した。1939年にはレンズの内製を始め[6]、同年に日本最初のX線間接撮影装置・X線キヤノンを完成させて医療機器へも踏み出している[7]。
敗戦の翌月にあたる1945年10月、同社はいちはやく生産を再開した[8]。翌1946年に送り出したキヤノンS型は進駐軍将兵と来日バイヤーの間で好評を博し[9]、キヤノンの名が海外に認められる端緒となっている。御手洗毅氏はこの時期に産婦人科医の職を退いて経営へ専念し、外国品に対抗しうる国産カメラを大成させるという課題を事業の目的に据えた。1947年9月には商号をキヤノンカメラ株式会社へ改め[10]、1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場して[11]資本市場からの調達路を開いた。1950年の欧米視察で御手洗氏は『日本商品がいかに不信用かであり、日本商品の道徳感がいかに低いかという一言に尽き、業界の覚醒を促して止まない衝動を覚えた』[引用元][12](新日本経済 1950/10/20)と述べており、Made in Japan への評価の低さを輸出の前提条件として受け止めていた。
1951年、御手洗毅氏は英国系の貿易商社ジャーデンマセソンと海外輸出総代理店契約を結び[13]、50万ドルの借入をあわせて本格的な輸出へ乗り出した。同じ年の11月には東京都大田区下丸子へ本社と工場を集結させ[14]、将来の発展に向けた基礎固めとしている。投じた額は2億円で、当時の資本金2000万円の10倍にあたり、通常の設備投資の水準を大きく超えた。あわせて東京銀座にサービスセンターを開設し[15]、国内の顧客対応にも拠点を置いた。完成した工場は木造の町工場的存在から近代工場へ飛躍した[16]と当時評され(ダイヤモンド 1956/10/23)、高級カメラへの特化と規模の先行投資によって品質と数量を同時に担保する生産設計が、以後の輸出経営を支える物理的な基盤となった。
高級カメラへの特化により売上高利益率は10%超を保ち、2億円の投資は3年で回収された。あわせて1952年12月に目黒精機製作所、1954年5月に秩父英工舎を設立し[17]、部品を自社系列で賄う体制も整えている。1955年10月にはニューヨーク支店を開設して現地の販売体制を敷き[18]、米国市場への直接の販路を得ている。1957年9月にはスイスへ欧州総代理店としてCanon Europe S.A.を置き[19]、北米と欧州の双方を自社の販売網で押さえた。快心の作が出るまでは量産を自重するという御手洗毅氏の方針のもと、品質に確信を持てるまで輸出を急がず、準備が整った段階で量産と輸出に踏み切る手順が定着した。
1956年からは8ミリシネカメラのキヤノン8T、キヤノンズーム8、8ミリ用プロジェクター、テレビカメラ用レンズを相次いで発表[20]し、製品の幅を広げた。1961年にはEEカメラの先駆となるキヤノネットを送り出し、最高級機のキヤノン7型F[21]とあわせて市場の話題を集めている。1964年10月には電子式卓上計算機を発売し、本格的に事務機分野へ進出[22]した。1966年4月には米国にCanon U.S.A.,Inc.を設立して[23]現地法人による販売へ切り替えている。1968年の時点で売上構成は高級カメラ・中級カメラ・8ミリ・カメラ以外の特機がそれぞれ4分の1程度、輸出は全売上高の半分近く[24]を占めた。マスプロダクションとマスセールスの仕組みを業界に先んじて導入した会社[25]であり、特機部門ではICを用いた電子卓上計算機が伸びていた。
1967年、御手洗毅氏は『右手にカメラ、左手に事務機光学特機をふりかざし、しかも輸出を大いに伸ばしていかなくてはなりません』[引用元]と述べ、カメラと事務機を経営の両輪に据える方針を打ち出した。1968年2月にキヤノン事務機販売株式会社を設け[26]、同年4月にはNPシステムを開発して普通紙複写機の分野へ参入している[27]。1969年3月には商号をキヤノン株式会社へ改め[28]、社名から『カメラ』の語を外した。1970年3月には半導体製造装置を発表し[29]、のちに産業機器へつながる系統も立ち上げている。1971年11月にはキヤノンカメラ販売とキヤノン事務機サービスをキヤノン事務機販売へ統合し、キヤノン販売株式会社として[30]国内の販売機能を一本化した。
普通紙複写機はゼロックスが1960年に商品化し、20年をかけた特許網で他社の参入を阻んでいた[31]。キヤノンも当初は感光紙を使うエレクトロファックス方式を商品化していた[32]ものの、酸化亜鉛を塗るため地が白くならず、紙も厚く重かった。1962年に製品研究課を置き、課員七名のうち田中宏氏ら三人が複写機を担当して[33]ゼロックスの特許を調べ上げたが、小手先の回避では製品化が無理と判明した。そこで田中氏は、カメラの電子化のために研究していた硫化カドミウムに着目した[34]。抵抗が低く電荷を保てないため電子写真用としては見捨てられていた材料だが、表面に絶縁性の透明フィルムを一体化して電荷を保持させ、帯電と保持の機能を分離する[35]ことで欠点を利点へ転じた。二つの材料を光学的に組み合わせる技術はカメラメーカーの本領であり、この方式をNPシステムと名付けている[36]。
1965年に総勢23名のEプロジェクトが動き出した[37]が、実用化は容易ではなく、複写機部門は累積で10億円の赤字を抱えた[38]。社内には撤退を求める強硬な意見も出たものの、経営陣は長期的に有望な事業と判断し、部門を中央研究所へ移して本社の費用で開発を続けさせている[39]。第一号機のNP-1100が市販にこぎつけたのは1970年で、着手から八年目[40]であった。キヤノンは自社に複写機の営業力が育っていない事情もあり、参入意欲の強い海外企業へ積極的に特許を供与して技術料を得る道を選ぶ[41]。1977年からは複写機で技術料収入が支出を上回り、1980年以降は支出がゼロ[42]になった。特許の確立には数万ページの書類と数億円の弁護士費用を要している[43]。
一方で電卓は1970年代の値下げ競争で採算が悪化し[44]、多角化の絞り込みの甘さに市場も疑いの目を向けた。1972年初頭の時点で同社の路線は決め手を欠く多角化と評されている[45](週刊東洋経済 1972/01/15)。1975年6月にキヤノンは無配へ転落し、電卓事業から撤退した。前田武男社長の急逝も重なるなか、1977年には常務の賀来龍三郎氏が副社長と専務を越えて社長へ就いている[46]。賀来氏は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制を敷いてカメラ・事務機・光学の各事業に損益責任を負わせた[47]。就任直後には、事務機の総合化がキヤノンの命題であり付加価値の高い製品差別化ができるかどうかが問われる[48]、という厳しい見方も示されている(週刊東洋経済 1977/07/30)。
複写機事業は1970年代後半から急拡大し、1982年には売上高が1000億円を超えた[49]。伸び率が一桁成長へ落ちる兆しを見て、同年にはデスクに載る小型・低価格のミニコピアを市販し、複写機のパーソナル化という市場を開いている[50]。1975年5月にはレーザープリンターの開発に成功しており[51]、1985年に米ヒューレット・パッカードと業務協力提携を結んでレーザービームプリンターをOEM供給した。自社ブランドの販路を独自に築くのではなく、販売の前面をパートナーへ譲って規模を取る選択であり、レーザービームプリンターの世界シェアは1990年に70%へ達した。HP社向けの販売高はのちに6110億円の規模まで伸びている。1981年10月に開発したバブルジェット記録方式[52]は、1990年発売の個人向けプリンター『BJ-10v』へ結実している。
生産の海外展開も並行して進み、1982年2月に大分キヤノン[53]、1985年11月に米国のCanon Virginia,Inc.[54]、1988年12月にマレーシアのCanon Opto[55]、1989年9月に中国の佳能大連事務機有限公司[56]、1990年8月にタイのCanon Hi-Techを相次いで設けている[57]。賀来氏が社長を務めた1977年からの十年[58]で、キヤノンはカメラメーカーから事務機メーカーへ主力を移し替えた。1990年には連結経常利益で国内5位の超優良企業へ成長したと報じられ[59]、売上高は1兆円を超えている(日経ビジネス 1990/01/01)。
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|---|---|---|---|---|
| 1933〜1966年御手洗哲学によるカメラ国産化と北米輸出モデルの確立 | キヤノン創業——医・証券・技術の三者結合が興した国産高級カメラ 1933年11月、映写機技術者・吉田氏五郎氏、証券マン・内田氏三郎氏、産婦人科医・御手洗氏毅氏の三者が東京六本木のアパートで精機光学研究所を興し、舶来品が独占していた高級小型カメラの国産化に挑んだ創業。試作機『Kwanon』は1935年に『Canon』へ改められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 東京目黒に精機光学工業として創立。カメラ製造販売開始 | ★ | |||
| 御手洗毅 | 商号をキヤノンカメラに変更 | ★ | ||
| 御手洗毅 | キヤノンカメラと商号変更 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 本社工場を新設。北米輸出を本格化 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 目黒精機製作所(現キヤノンプレシジョン)を設立 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 秩父英工舎(現キヤノン電子)を設立 | ★ | ||
| 御手洗毅 | ニューヨーク支店開設 | ★ | ||
| 御手洗毅 | カメラ不況により減収決算へ | ★ | ||
| 御手洗毅 | 事務機分野に本格参入 | ★★ | ||
| 御手洗毅 | Canon U.S.A.,Inc.を設立 | ★ | ||
| 1967〜1994年事務機への経営転換と売上高1兆円突破という飛躍 | 御手洗毅 | 「右手にカメラ、左手に事務機」の方針策定 | ★ | |
| 御手洗毅 | 普通紙複写機(PPC)分野に参入 | ★★ | ||
| 御手洗毅 | キヤノンと商号変更 | ★ | ||
| 御手洗毅 | 半導体製造装置を発表 | ★★ | ||
| 御手洗毅 | キヤノン販売に商号変更 | ★ | ||
| 前田武男 | レーザープリンターの開発に成功 | ★★ | ||
| 前田武男 | 無配転落。電卓事業の撤退 | ★ | ||
| 賀来龍三郎 | 賀来氏龍三郎氏の社長抜擢と事業部制による事務機集中 1977年、電卓事業の採算悪化で無配に転落したキヤノンが、前田武男社長の急逝を受けて常務の賀来氏龍三郎氏を社長に抜擢した経営判断。賀来氏は前任経営陣の甘さを公言し、事業部制で各事業の損益を見えるようにして、多角化を整理し事務機へ研究開発を集中させた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 賀来龍三郎 | バブルジェット記録方式の開発に成功 | ★★ | ||
| 賀来龍三郎 | 大分キヤノンを設立 | ★ | ||
| 賀来龍三郎 | HP社と業務協力提携を締結。LBPのOEM供与へ | ★ | ||
| 賀来龍三郎 | Canon Virginia,Inc.を設立 | ★ | ||
| 山路敬三 | 中華人民共和国に佳能大連事務機有限公司を設立 | ★ | ||
| 山路敬三 | BJP「BJ-10v」の発売(BtoC向け) | ★ | ||
| 1995〜2026年デジタル化対応とM&Aによる事業領域の拡張 | 御手洗冨士夫 | 御手洗氏冨士夫氏の社長就任と連結経営・自前主義への転換 1995年9月、御手洗氏冨士夫氏が代表取締役社長に就任し、事業部ごとの採算から、子会社を含む連結全体の利益とキャッシュフローを物差しにする経営へ改めた。技術と販路の自前主義を徹底し、セル生産で在庫を絞って『稼ぐ会社』へ作り替えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 御手洗冨士夫 | 中華人民共和国にCanon(China)Co.,Ltd.を設立 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | セル生産方式を導入 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 大分キヤノンマテリアルを設立 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | ニューヨーク証券取引所に上場(2023年3月 上場廃止) | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | アネルバ(現キヤノンアネルバ)の株式を取得 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | NECマシナリー(現キヤノンマシナリー)の株式を取得 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 原価改善により過去最高収益へ | ★ | ||
| 内田恒二 | リーマンショックで減収減益。本業が頭打ちに | ★ | ||
| 内田恒二 | 「自前主義」を返上した初の大型買収——蘭オセの連結子会社化 2009年11月、キヤノンはオランダの印刷機大手オセ(Océ)を株式公開買付け(TOB)で連結子会社化すると発表した。1株8.6ユーロ、総額約730百万ユーロ(当時のレートでおよそ1,000億円)で、同社にとって過去最大の買収だった。独自技術にこだわる自前主義を看板としてきたキヤノンが、初めて大型のM&Aで他社の技術と欧米の販路を買い、成長領域の商業印刷へ進んだ転換にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 御手洗冨士夫 | Axis Communicationsを買収発表 | ★★ | ||
| 真栄田雅也 | 東芝メディカルシステムズの6655億円買収と医療への本格参入 2016年、キヤノンは経営再建中の東芝から医療機器子会社の東芝メディカルシステムズを6655億円で買収した。富士フイルムやコニカミノルタとの入札を制し、CTや超音波診断装置などの医療事業を主力の一角に据える事業転換であった。ただ、独占禁止法の事前届出の前に代金を東芝へ払い込む複雑な手法を用いたため、公正取引委員会は買収そのものは承認しつつ、その手法に異例の『注意』を行った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 御手洗冨士夫 | Redlen Technologies Inc.の株式を取得 | ★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 取締役候補を全員男性としたキヤノンと、御手洗会長の賛成率50.59% 2023年3月のキヤノン定時株主総会で、会長兼社長CEOの御手洗氏冨士夫氏の取締役再任議案への賛成率が50.59%にとどまった。取締役候補5名が全員男性で多様性を欠くとして、議決権行使助言会社のISSと海外機関投資家が反対に回った結果である。前年の75.3%から24.71ポイント下げ、可決に必要な過半をわずかに上回る薄氷の再任となった。翌2024年、初の女性社外取締役を迎えると賛成率は90.86%へ戻した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 医療機器事業ののれん1651億円減損と本社一体化による立て直し 2025年1月30日、キヤノンは2024年12月期決算で、2016年に6655億円で買収した医療機器子会社キヤノンメディカルシステムズを中心に、のれんの減損損失1651億円を計上したと発表した。売上高は過去最高を更新しながら、純利益は前の期比40%減の1600億円に落ち込み、4期ぶりの減益となった。御手洗氏冨士夫会長兼社長CEOは、これに前後して医療事業を本社と一体化する構造改革に踏み込んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 御手洗冨士夫 | 3度目の社長交代と、御手洗氏冨士夫会長による「並走」体制 2026年1月29日、キヤノンは小川一登取締役副社長が社長COO(最高執行責任者)へ昇格する人事を発表した。会長兼社長CEO(最高経営責任者)を務めてきた御手洗氏冨士夫氏は社長職を譲るものの、会長CEOとしてグループ全体の陣頭指揮を続ける。小川氏の社長就任は3月27日の定時株主総会後で、御手洗氏が社長交代会見を開くのは2006年、2016年に続く3度目となった。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(キヤノン)