ビデオに参入。円高ドル安で収益性が悪化
オーディオ輸出市場の競争激化と円高による収益圧迫
1970年代に入ると、ソニー、パイオニア、トリオ、山水電気、ケンウッド、日本ビクターなど日本の電機メーカーが相次いでオーディオ機器の海外輸出を本格化させた。赤井電機が先駆的に開拓した輸出主体の事業モデルは業界全体に広がり、テープレコーダーを中心とする高級オーディオ市場での価格競争が激しさを増した。各社が類似の高品質製品を海外市場に投入する中で、赤井電機の製品が持っていた品質面での差別化の余地は縮小していた。
さらに1971年のニクソンショックによる円高ドル安の進行が、売上高の95%を海外輸出に依存する赤井電機の収益構造を直撃した。為替変動が利益率に与える影響は大きく、オーディオ事業単独では中長期的に安定した成長を見通すことが困難になりつつあった。テープレコーダーで蓄積した精密駆動機構やモーター制御の技術を活かせる隣接領域への展開が、経営の喫緊の課題として浮上した。
テープ駆動技術を活用したビデオ事業への参入
赤井電機はオーディオに次ぐ事業の柱としてビデオ機器を選択した。ビデオ機器はテープレコーダーと同様にテープを小型モーターで回転させる駆動機構を持ち、赤井電機が蓄積してきた精密な製造技術との親和性が高い製品分野であった。しかし、ビデオ市場では日本ビクター陣営のVHS規格とソニーのベータマックス規格による規格競争が進行しており、赤井電機はこの競争に出遅れたためライセンス収入を得られる立場を確保できなかった。
赤井電機はVHS方式を採用してビデオの売上高を段階的に拡大させ、1988年にはビデオが売上高の50%超を占めるに至った。しかし、規格のライセンス収入を持たない立場では製品の量産販売のみで利益を確保する必要があり、収益性は低い水準にとどまった。
プラザ合意後の円高で採算構造が崩壊
1985年のプラザ合意によって円高ドル安が急速に進行すると、大田区の本社工場を主力製造拠点とする赤井電機の採算構造は一段と悪化した。1981年には最終赤字に転落し経営陣が更迭され、1986年には欧米の海外現地法人を閉鎖するに至った。輸出比率95%という事業構造が為替変動に対して極めて脆弱であることが、円高局面で露呈した。
オーディオからビデオへの事業転換は、技術的な親和性の観点からは合理的であった。しかし、規格競争への出遅れによるライセンス収入の不在と、国内生産に固定された製造体制、そして円高という外部環境の変化が重なり、赤井電機の収益構造を支える前提が崩れた。輸出特化型の高収益モデルは、為替環境が逆転した瞬間に構造的な弱点へと転じた。