重要な意思決定
19514月

テープレコーダーに参入。輸出に特化

背景

小型モーター事業の競争激化と最終製品への転換模索

赤井電機は戦後の再建期にレコードプレーヤー向け小型モーターの製造を手がけ、フォノモーター分野で国内市場の大半を占める地位を築いていた。しかし1950年代に入ると松下電器をはじめとする大手電機メーカーがこの分野に相次いで参入し、部品単体での価格競争が急速に激化した。小型モーターは汎用部品としての性格が強く、大手の量産体制に対して価格面での競争優位を維持することが困難になりつつあった。

部品事業での収益確保が難しくなる中、赤井電機は小型モーターで培った精密機構の技術を応用できる最終製品への事業転換を模索した。転換先として選んだのがテープレコーダーであった。テープレコーダーはモーターによるテープ駆動機構を核とする製品であり、赤井電機が蓄積してきた精密モーターの設計・製造技術をそのまま活かせる領域であった。

ただし、テープレコーダー市場にはソニーが先行メーカーとして既に存在していた。後発企業として大手と正面から競合するのではなく、製品設計と販売先の両面で独自の差別化戦略を構築する必要があった。

決断

縦型レコーダーの独自開発と海外輸出への特化

赤井電機は製品設計の面で先発企業との差別化を図った。当時のテープレコーダーは横型が主流であり広い設置場所を必要としていたが、赤井電機は省スペースで縦に設置できる独自の縦型テープレコーダーを開発した。先発のソニーが横型を展開する中、赤井電機の縦型は設置のしやすさという使い勝手の面で市場から支持を獲得し、後発ながらもテープレコーダー市場で着実に販売実績を積み上げた。

販売面では海外輸出への特化という方針を採った。戦後の日本国内ではテープレコーダーは高額商品であり十分な需要が見込めなかったため、欧米などの先進国市場への輸出に活路を求めた。1956年に赤井三郎が渡米し、アメリカの視聴覚教育企業キャリアフォン・ロバーツ社への納入契約を獲得して海外販路の本格的な開拓に着手した。

さらに自社でセールスエンジニアを育成し、海外顧客に対する修理・保守を迅速に行うアフターサービス体制を各地に整備した。製品の差別化と輸出特化という二つの戦略が、大手メーカーとの競合を回避しつつ収益を確保する基盤となった。

結果

輸出比率95%・売上高純利益率12.8%の高収益企業として上場

赤井電機は1960年代を通じて高学歴のエンジニアを業界水準を上回る待遇で積極的に採用し、テープレコーダーの製品開発力を段階的に引き上げた。大田区の本社工場を中心に段階的な設備拡張を実施し、増大する海外需要に対応できる製造能力を確保した。

販売先はアメリカだけでなく欧州やアフリカなど世界各地に広がり、170の代理店を展開した。特定の取引先への売上依存度を下げることで収益基盤の安定化を図った。1969年時点で売上高に占める輸出比率は95%に達し、国内市場に依存しない独自の事業構造が確立された。

この高い輸出比率に支えられた収益性を背景に、赤井電機は1968年に東京証券取引所第2部への上場を実現した。上場時の売上高純利益率は12.8%に達し、電機業界の中でも際立つ高収益企業として証券市場や経済誌から注目を集めた。ただし、輸出比率95%という構造は為替変動に対する脆弱性を内包しており、その後の円高局面で深刻な影響を受けることになる。