重要な意思決定
197512月

経営陣が脱繊維を否定

背景

繊維産業の構造的な逆風と業界全体に広がった脱繊維の潮流

1970年代、日本の繊維産業は複数の構造的な逆風に直面していた。1971年のニクソン・ショック以降の円高進行は輸出採算を悪化させ、韓国・台湾・中国の繊維メーカーの台頭は価格競争力の低下を招いた。量産型の繊維事業は、先進国のコスト構造では収益を維持しにくい状況に変わりつつあり、国内の大手繊維メーカーは事業構造の転換を経営課題として意識するようになった。

実際に、鐘紡は化粧品など非繊維分野への展開を掲げた「ペンタゴン経営」を打ち出し、日清紡はブレーキパッドなど工業用途への投資を拡大した。繊維から距離を取ることが、当時の経営合理性に基づく自然な選択と受け止められており、脱繊維は業界全体の潮流となっていた。繊維事業にとどまり続けることが、むしろ経営判断としてリスクがあると見なされていた時代であった。

決断

「繊維に残る」という選択と技術深化への経営資源の集中

こうした環境下で、東レの藤吉次英社長は1975年12月に脱繊維という方針を明確に否定した。繊維は衣食住を支える必需素材であり、競争力の源泉は事業分野そのものではなく技術の深さにあるという認識が示された。短期的な収益悪化を理由に繊維から離れるのではなく、技術を磨き続けることで競争優位を確保するという経営方針が打ち出された。

同時に、藤吉社長は多角化についても独自の考えを示した。繊維の研究開発過程で生まれた技術を、繊維以外の分野にも展開することは積極的に進めるべきであるが、繊維を離れて異分野に転じるのではなく、繊維の技術基盤から派生する形での事業拡張が正しい方向であると位置づけた。脱繊維を否定しつつ、繊維の延長線上での多角化を肯定するという判断であった。

結果

高付加価値素材への集中が生んだ炭素繊維事業の加速

「繊維に残る」という方針のもと、東レは繊維分野に研究開発資源を集中させた。その延長線上で、汎用繊維ではなく高付加価値素材への取り組みが深まり、炭素繊維をはじめとする先端材料への注力が加速した。脱繊維を選んだ同業他社が繊維技術の蓄積を手放していく中、東レは繊維の技術基盤を維持・深化させることで差別化を図る道を選んだ。

1970年代に示された「繊維に残る」という姿勢は、結果として事業領域を狭めるものではなかった。繊維技術を起点に樹脂、フィルム、炭素繊維へと展開する多角化が進み、繊維にとどまったことがかえって先端材料メーカーへの転換を可能にした。脱繊維を否定した判断は、繊維に固執したのではなく、繊維技術の応用可能性を信じた選択であったことが、以降の事業展開によって示されていった。