米デュポンとナイロンの技術提携契約を締結
戦前からの研究蓄積と戦後の技術格差が迫った技術導入の選択
東レは戦前の1927年にはデュポンによるナイロンの開発動向を把握しており、自社でもナイロンに関する基礎研究を進めていた。しかし、戦時中の研究中断によって米国との技術格差は拡大し、独自開発で追いつくには時間と資金の両面で制約があった。戦後の技術復興期において、合成繊維は次世代の基幹素材として注目されており、レーヨンに次ぐ事業の柱を確立するためにはナイロンの技術獲得が不可欠と認識されていた。
1951年当時、ナイロンは国内でほとんど普及しておらず、衣料用途として商業的に成立するかどうかは不透明であった。多くの繊維メーカーがナイロンの将来性に懐疑的である中、東レがナイロン導入を決めた判断は業界内でも異例と受け止められた。既存のレーヨン事業で安定した収益基盤を持っていたからこそ、不確実性の高い合成繊維への投資が可能であったという側面もあった。
一方、原料であるカプロラクタムの安定供給も課題であった。1949年に東亜合成と提携し、名古屋に工場を新設してカプロラクタムの供給体制を整える計画が並行して進められた。技術導入、設備投資、原料調達の3つを同時に準備することで、ナイロンを単なる研究テーマではなく、量産を前提とした事業として立ち上げる意図が示されていた。
資本金を上回る技術導入費用を伴う高リスク投資の実行
1951年6月、東レは米デュポンとナイロンに関する技術提携契約を締結した。契約の対価として、ロイヤルティ前払い金300万ドル、当時の為替レートで10.8億円の支払いが求められた。当時の東レの資本金は7.5億円であり、資本金を大きく上回る規模の投資であった。技術導入が計画通りに進まなければ、財務面に重大な影響を及ぼす可能性があった。
契約内容はナイロン製造に関する特許実施権の取得にとどまり、製造ノウハウの提供は含まれていなかった。製造技術の確立は東レ自身で進める必要があり、特許の取得がそのまま量産能力の獲得を意味するわけではなかった。それでも東レは、特許を押さえることが将来の量産化への前提条件と判断し、契約を選択した。田代茂樹会長は分割払いの交渉を提案し、財務負担の軽減を図りながら契約をまとめた。
あわせて、ナイロン量産のための生産拠点として、1950年5月に旧三菱重工大江工場を取得し、名古屋工場の建設を進めた。既存のレーヨン工場への併設ではなく、合成繊維専用の新設工場とすることで、ナイロンの製造に特化した設備と工程を早期に確立する方針が取られた。戦時中に航空機生産に使われていた建屋を転用した判断は、立ち上げ速度を重視した選択であった。
名古屋工場の稼働と合成繊維メーカーへの転換の起点
1951年4月に名古屋工場の第1工場が稼働し、ナイロンの生産が開始された。同年10月には第2工場も稼働を開始し、量産体制が段階的に整えられた。特許のみを取得し、ノウハウの提供を受けずに製造を進めた結果、生産立ち上げの過程では品質安定や工程管理に多くの試行錯誤を要したが、自社で技術を確立する方針は長期的な技術蓄積につながった。
ナイロンの量産開始は、東レの事業構造に大きな変化をもたらした。レーヨン単一の事業体から合成繊維メーカーへと転換する起点となり、以降のポリエステルや炭素繊維への展開を支える技術的基盤が形成された。資本金を超える投資判断は結果として合成繊維分野での先行者利益を確保する形となり、国内合繊市場における東レの競争的地位を確立する契機となった。
一方、この投資判断は当時の経営陣による強いリスクテイクに支えられたものであった。ナイロンの将来性を確信していたというよりも、合成繊維の技術を押さえておかなければ将来の競争力を喪失するという危機感が判断の根底にあった。技術提携、設備投資、原料確保を同時並行で進めた判断は、東レにおける「技術を止めない」経営姿勢の原型として、以降の事業展開にも引き継がれていった。