尼崎紡績会社を設立
明治期の綿糸輸入依存と関西圏における紡績創業の条件
1880年代後半の日本では、工業化と人口増加を背景に綿糸の国内需要が拡大していたが、供給の大半はイギリスやインドからの輸入に依存していた。明治政府は殖産興業政策の一環として紡績業の国産化を推進し、1882年に設立された大阪紡績会社が近代紡績機による量産で好業績を上げたことで、民間資本の紡績業参入が各地で活性化していた。とりわけ関西地域は、港湾を通じた原綿輸入の利便性と問屋網を基盤とする国内販路の厚みを有しており、紡績工場の立地として優位な条件を備えていた。
尼崎は大阪市街に近接し、武庫川水系の工業用水と海上輸送路への接続が確保できる立地にあった。英国プラット・ブラザーズ社製の紡績機械を導入すれば量産体制の構築が技術的に可能であり、先行する大阪紡績の操業実績が設備選定と採算見通しの根拠を提供していた。紡績業は設備集約型の産業であり参入には一定の資本規模を要するが、国内需要の拡大局面では投下資本を比較的早期に回収できる産業構造を持っていた。こうした特性から、関西圏の資産家にとって紡績業への出資は合理的な投資機会として認識されていた。
関西財界の出資による尼崎紡績の設立と英国製設備での量産開始
1889年6月、兵庫県尼崎において有限会社尼崎紡績会社が設立された。発起人には関西財界の有力者が名を連ね、初代社長には実業家の広岡信五郎が就任した。出資者は大阪の商人層を中心とする地域の資産家で構成され、事業目的は国内向け綿糸の製造・販売に限定された。英国からの輸入綿糸を国産品で代替することが経営方針の中核に据えられ、設立時の事業範囲は紡績専業に絞り込まれた。多角化よりも単一事業での収益確立を優先する判断だった。
翌1890年には本社工場となる第一工場が竣工し、煉瓦造り二階建ての建屋に英国プラット・ブラザーズ社製の紡績機械が据え付けられた。機械は三井物産を経由して調達され、綿紡績による紡糸生産が開始された。設備投資と海外技術の移転を組み合わせた量産型の事業モデルにより、尼崎紡績は創業段階から一定の生産規模を備える体制で出発した。この初期の設備構成はその後の増錘と工場拡張の起点となり、1893年には株式会社への組織変更が行われて資本調達の枠組みが整えられた。