金川千尋が社長就任、「フル生産、全量販売」を全社方針に
シンテックで実証済みの経営手法を持つ異色の社長候補
1990年、信越化学工業の社長に金川千尋が就任した。金川は東京帝国大学法学部を卒業後、極東物産(現三井物産)に入社し、1962年に信越化学に転じた人物である。信越化学では海外事業を中心にキャリアを重ね、1973年にシンテックの設立を企画立案。1978年にシンテック社長に就任してからは、テキサスを拠点に12年間にわたって米国塩ビ事業の拡大を指揮してきた。
金川の社長就任は、信越化学の歴史において画期的な転換点であった。創業以来、信越化学の経営は小坂家を中心とする創業家と、その信任を得た生え抜き社員によって担われてきた。金川は三井物産からの中途入社組であり、しかも十年以上にわたって本社を離れ米国で経営に従事していた。国内の社内政治や人脈とは距離を置いた、異色の経歴の持ち主であった。
しかし金川には、他の社長候補にはない決定的な強みがあった。シンテックを年産10万トンの小規模工場から米国トップの塩ビメーカーに育てた実績である。しかもその成長は、不況時にも減産せず設備投資を続けるという、日本の化学業界の常識に反する方法で達成されていた。金川はこの手法を全社に適用する意図を持って社長に就任した。
「フル生産、全量販売」を全社方針として徹底
金川は社長就任とともに、シンテックで実践してきた「フル生産、全量販売」を信越化学全体の経営方針として明確に打ち出した。景気後退期にも生産を減らさず、高稼働率を維持する。不況時こそ設備投資を継続し、競合が縮小する局面でシェアを拡大する。この方針は、塩ビだけでなく、半導体シリコン、シリコーンなど全事業に適用された。
金川の経営スタイルは、数字に対する徹底的なこだわりが特徴であった。座右の銘は「常在戦場」。山本五十六を心の師と仰ぎ、「会社は株主のもので、利益を追求するもの。私は株主の『召使』にすぎません」と語った。抽象的な経営理念やビジョンを嫌い、具体的な数字と利益で判断するスタンスを貫いた。
社長就任後、金川は組織のスリム化も推進した。少数精鋭を旨とし、管理部門の肥大化を排除した。シンテックでは従業員数に対して極めて高い利益を生み出す体質が確立されていたが、この考え方を日本本社にも持ち込んだ。「できる人間には権限を与え、任せる。できない人間には辞めてもらう」という厳しさは、日本の化学業界では異例であった。
13期連続最高益、時価総額22倍の拡大
金川体制の下、信越化学は1994年3月期から15期連続増益を達成した。この間、連結売上高は就任時の約3倍に拡大し、営業利益率は10%台後半から30%超へと飛躍的に向上した。株式時価総額は就任時の約22倍に増大し、化学業界で国内1位の座を確固たるものとした。「失われた30年」において時価総額の伸びで日本の全上場企業の経営者中首位と評価された。
金川の経営改革が効果を発揮した最大の要因は、シンテック・信越半導体・磯部工場(シリコーン)という三つの収益柱のすべてで「フル生産、全量販売」が機能したことにある。いずれの事業もグローバル市場でトップクラスのシェアを持ち、景気循環を超えた長期需要に支えられていた。塩ビは住宅・インフラ、半導体シリコンはデジタル化、シリコーンは自動車・電子機器──各事業の需要ドライバーは異なるが、いずれも構造的な成長市場であった。
2010年に金川は会長に就任したが、代表権を保持して経営への関与を続けた。2023年一月一日、96歳で逝去するまで、信越化学のトップとして33年間にわたり経営を主導した。1992年の日経ビジネスのインタビューで「不況期に対応するのが経営者だ」と語った金川は、その言葉通り、好況も不況も同じスタンスで乗り越える経営を貫いた。