取締役会の反対を押し切り、シンテックを完全子会社化
合弁パートナーの経営不振と買収の好機
シンテックは1973年にロビンテック社との折半出資で設立されたが、操業開始後わずか二年で合弁関係に転機が訪れた。ロビンテックは塩ビパイプの製造販売を主力とする米国企業であったが、1970年代半ばの景気後退と市場環境の変化により経営が悪化していた。ロビンテックはシンテックの持分を手放す意向を示し始めた。
信越化学の小田切新太郎社長は、かねてから合弁契約に「自社の持分を売却する際は、必ず合弁相手に最初に通知しなければならない」という優先交渉権条項を盛り込んでいた。この条項はシンテック設立時にも適用されており、ロビンテックが持分を売却する場合は信越化学が最初に交渉できる権利を保有していた。金川千尋はこの機会を逃さず、ロビンテックの全株式を取得してシンテックを100%子会社にすることを小田切に進言した。
しかし、当時の信越化学にとって米国の塩ビ工場を単独で抱え込むことは大きなリスクであった。シンテックは操業開始から間もなく、まだ十分な収益実績を持っていなかった。米国市場は価格変動が激しく、為替リスクも伴う。日本の化学メーカーが米国で単独経営する前例もほとんどなかった。
小田切社長が取締役会の反対を押し切り買収を決断
1976年七月、信越化学はロビンテック社が保有するシンテックの全株式を取得し、シンテックを100%子会社とした。この決断を下したのは小田切新太郎社長であった。取締役会では「米国の塩ビ工場を丸抱えするリスクは大きすぎる」との反対意見が多数を占めたが、小田切は反対を押し切って買収を実行した。
小田切の判断の根拠は二つあった。第一に、テキサスの原料コスト優位性は構造的なものであり、景気変動を超えて持続すると見たこと。岩塩と天然ガスに恵まれたテキサスでの塩ビ製造は、日本国内やアジアのメーカーに対して圧倒的なコスト優位を持つ。第二に、100%子会社化によって投資判断のスピードと柔軟性が飛躍的に高まること。合弁時代は設備増強の都度パートナーとの協議が必要だったが、完全子会社化すれば信越化学の一存で投資を決定できる。
小田切はさらに、シンテックの経営を金川千尋に一任した。1978年に金川がシンテック社長に就任し、以後「フル生産、全量販売」の方針のもとで自律的な経営を推進する体制が確立された。小田切は金川に「好きにやれ」と言い、細かい口出しはしなかった。
完全子会社化がシンテックの自律的成長を可能にした
100%子会社化の効果は、その後の成長スピードに如実に表れた。合弁時代の二年間はパートナーとの調整に時間を要したが、完全子会社化後は金川の判断一つで設備投資を決定できるようになった。景気後退期にも競合が投資を躊躇する中で増産投資を続け、景気回復時にシェアを一気に拡大する──このサイクルを何度も繰り返すことで、シンテックは米国13位から世界首位へと駆け上がった。
財務面でも完全子会社化の効果は大きかった。利益の全額が信越化学グループに帰属するようになり、シンテックの高収益がグループ全体の財務基盤を強化した。1992年時点で、シンテックの自己資本比率は80%を超え、設備増強はすべて内部留保で賄われていた。この無借金経営は、合弁パートナーへの利益配分がなくなったことで可能になった側面がある。
小田切のこの決断は、後に「中興の祖」と評される所以の一つとなった。取締役会の多数意見に従っていれば、シンテックは合弁のまま存続し、投資判断のたびにパートナーとの交渉を要しただろう。金川千尋が「フル生産、全量販売」を徹底できたのは、シンテックが100%子会社であり、経営の全権を委ねられていたからである。合弁解消というひとつの法務判断が、50年にわたる成長の前提条件を整えた。