重要な意思決定
19531月

「肥料屋」からの脱却、日本初のシリコーン事業化

背景

肥料依存からの脱却を迫られた信越化学

1950年代初頭、信越化学の売上の大宗は依然として石灰窒素を中心とする肥料製品であった。戦後復興期の農業需要に支えられて業績は安定していたが、硫安など競合肥料との価格競争は激しく、企業としての成長余地は限られていた。1953年に発刊された社報「信越化学」の創刊号には、一従業員から「当社が化学工業会社であるといっても、その主要製品が肥料であり、しかも石灰窒素という厄介なものにとどまっている限り、『肥料屋』の名称はいつまでも抜けないだろう」という投書が寄せられていた。

この投書と同じページに、小坂徳三郎副社長の談話が掲載されている。「当社もこれから有機合成に努力を傾けたいと考える。信越化学は今日、重大な曲がり角にきている。長年やり慣れた肥料の仕事から、より一段高度の化学工業部門の発展ということは、多くの血のにじむような研究と努力が必要である」。経営陣も従業員も、構造転換の必要性を認識していた。

決断

GEとの提携によるシリコーン国産化

1953年一月、信越化学は米ゼネラル・エレクトリック(GE)社とシリコーン製造に関する特許使用実施権の技術援助契約を締結した。シリコーンは珪素を主原料とする樹脂の一種で、「二十世紀の奇跡」とも呼ばれた新素材である。半無機・半有機の分子構造を持ち、耐熱・耐寒・耐候性に優れ、オイル・レジン・ゴムなど多様な形態で得られる。信越化学は磯部工場にわが国最初のシリコーン設備を建設し、同年八月から本格生産を開始した。

徳三郎は「シリコーン事業を矮小な盆栽にしてはならない。堂々たる大木に育てる」と述べ、事業拡大の意思を明確にした。1954年には西独バイエル社ともシリコーン技術で提携し、技術基盤を二重化した。1955年には日立製作所との間で「シリコーン製品については信越化学のものを優先的に用いる」という供給販売体制が成立し、わが国最大級の電機メーカーとの安定的な取引関係を確保した。

結果

シリコーンが信越化学の構造転換の起点に

シリコーン事業は不況時にもひとり順調な成長を続けた。1960年の営業報告では、シリコーンの売上は信越化学全体(約四十五億円)の一四%を占めるまでに成長していた。肥料やカーバイドが市況に左右される中、シリコーンだけがフル稼働を維持していたのである。この経験は、後に金川千尋が「フル生産、全量販売」を全社方針とする際の原体験となった可能性がある。

さらにシリコーン技術は、高純度シリコン(半導体材料)への展開を可能にした。シリコーン工場の副産物であるトリクロロシランを精製して多結晶シリコンを製造し、1960年には「スーパー・シリコン」の商品名で半導体メーカーへの出荷を開始した。肥料→シリコーン→半導体シリコンという連鎖は、技術の隣接領域への展開という信越化学の成長パターンの原型となった。