重要な意思決定
19269月

余剰電力を化学工業に転換、信越窒素肥料を設立

背景

長野県の電力余剰と化学工業の接点

長野県の水力発電事業は、明治三十年に小坂善之助が長野電灯を創業したことに始まる。善之助は「山国である長野県の豊富な水源を天与の宝物」として電力事業を開拓し、裾花川で六十KWの発電から出発した。明治三十六年には須坂の製糸業者・越寿三郎が信濃電気を創業し、千曲川水系の水力を活用して急成長した。両社の電力供給圏は拡大を続けたが、やがて供給が需要を上回り始めた。自流式発電では昼間の電力需要が限られ、余剰電力の活用が経営課題となっていた。

この余剰電力の消化法として注目されたのが、カーバイド工業であった。電気炉で石灰石とコークスを加熱してカーバイドを製造し、これを石灰窒素に転換して化学肥料とする。明治三十六年には野口遵らが九州・水俣でカーバイド工場を建設し、後に日本窒素肥料へと発展していた。大正十三年、野口の日本窒素は合成硫安の製造に転じて石灰窒素生産を停止し、信濃電気との新たな提携先を模索していた。

決断

信濃電気と日本窒素の共同出資で設立

大正十五年(1926年)九月十六日、信濃電気の越寿三郎と日本窒素の野口遵は提携し、信越窒素肥料株式会社を設立した。信濃電気側から資本金三百万円と余剰電力(最大二万五千KW、平均一万五千KW)、日本窒素側から石灰窒素の製造設備と技術(評価額二百万円)を共同出資し、資本金五百万円で発足した。本社を長野市に置き、越寿三郎が社長、野口遵が取締役に就任した。

工場用地には新潟県直江津にあった日本石油の精油工場跡地約二十六万平方メートルを買収し、原料の石灰石を確保するため親不知の原石山も取得した。同年十二月に建設着工、フランク式連続炉の設計で突貫工事が進められ、翌昭和二年十月に電気炉六基・窒化炉二十四基を中心とした工場が完成。カーバイド、石灰窒素、黒鉛電極の製造を開始した。

結果

昭和恐慌で創業者は退場、小坂家が再建へ

しかし創業直後から経営環境は激変した。石灰窒素業界は過当競争に陥り、農村は米価暴落で疲弊して需要が急減した。越寿三郎は本業の製糸事業も打撃を受け、1930年に社長を退任。後任の野口遵もわずか三ヵ月で去った。信越窒素は電力料金すら支払えない状態に陥り、1931年には操業休止を宣した。

窮境にあった越寿三郎は、保有する信濃電気と信越窒素の株式を小坂順造に買い取ってもらうよう申し出た。順造は相当な価格で引き取り、破格の退職金も贈った。1931年五月、順造が社長に就任し、資本の一本化(減資→増資で信濃電気への未払い清算)を断行。社是「衆心維城」を掲げて再建に着手した。余剰電力から生まれた信越窒素は、創業からわずか五年で破局と再生を経験することになった。