重要な意思決定
19723月

株式会社似鳥家具卸センターを設立

背景

渡米視察で「価格3分の1」の衝撃を受け、事業の方向性が決定的に変わった転機

1972年3月にニトリは個人事業から株式会社(株式会社似鳥家具卸センター、資本金600万円)に組織変更し、金融機関からの資金調達を積極化して事業の本格展開を開始した。法人化の同年、創業者の似鳥昭雄は小売業者の視察でアメリカを訪問し、現地の生活環境と家具価格に衝撃を受けた。アメリカの家具は日本の3分の1の価格でありながら、色やデザインがコーディネートされていた。この体験から似鳥は「60年かけてアメリカに追いつく」という長期目標を設定し、日本の消費者に安価で品質の高い家具を届けることを事業の使命と定めた。

渡米体験を経て、ニトリは仕入れ体制の根本的な見直しに着手した。安い家具を確保するため、仕入れ部門を別会社として設立し、倒産メーカーの家具を原価割れで仕入れるルートを構築した。さらに、家具の有力メーカー3社に似鳥氏が社外役員として参画し、ニトリのオリジナル家具の製造を委託する方式も1977年までに整備した。小売業でありながら製造メーカーに製品仕様を指示する体制は、のちのSPA(製造物流小売)モデルの萌芽であった。

決断

厳格な人事規律と若手抜擢で急拡大を支える組織体制を構築

店舗の急拡大に伴い、ニトリは管理職の早期育成を迫られた。1981年時点の従業員数は142名(うち社員108名・臨時社員34名)、平均年齢は26歳と若い組織であった。採用時に「2〜3年で店長になれる」と説明し、実際に1978年の時点で23歳の店長や入社5年の部長が存在した。

若手中心の組織を統制するため、ニトリは厳格な人事規律を敷いた。当時の記事によれば「遅刻3回、無断欠勤1回、交通事故2回で解雇」「賭博行為が判明すれば即刻解雇」という運用であった。20代の若者を短期間で店舗運営責任者に育てるには、規律の徹底が不可欠であったと推察される。この人事方針は、ニトリが北海道内で年間数店舗のペースで出店を拡大するための組織的な基盤となった。