歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1908年4月、熱田兵器廠の技師だった安井兼吉氏が職を辞し、名古屋市熱田区伝馬町で安井ミシン商会を開いた。シンガー社製の中古ミシンを買い取って修理・販売する小店で、当時の日本に国産ミシンを作る精密加工の力はなかった。1925年に兼吉氏が逝去すると、長男・正義氏が弟妹を加えた兄弟経営で家業を継ぐ。1928年、修理需要が縮むなか、安井兄弟は部品加工用のエキセン旋盤を自分たちで作り上げ、ミシン本体より先に加工装置を内製した。
決断1932年、シンガー社が市場の約90%を握るなか、正義氏は自前の加工技術で家庭用ミシン15種70型の国産化に踏み切り、1934年に日本ミシン製造を設立した。以後も内製で蓄えた精密加工を異領域へ転用していく。1962年にミシン用工作機械のタッピングマシンを外販し、1971年には米セントロニクス向けOEMで高速プリンターへ広げた。1992年、撤退寸前だった事務機器を救ったのも、米国主流799ドルに対し399ドルから逆算したFAX-600で、深圳の委託生産で量産に乗せた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1932年に、シンガー社が約9割を握る市場で家庭用ミシンの国産化に踏み切ったのか
- A ミシン本体を作る前に加工装置から内製したのは、当時の日本に精密加工の蓄積がなく、機械を買おうにも資金を貸す銀行がなかったからである。技師あがりの安井正義氏は、買えないなら自前の技術で作るほかないと考え、1928年に部品加工用のエキセン旋盤を自作した。この加工装置を握ったことで、シンガー社が約9割を占める市場へ1932年に家庭用ミシン15種70型で参入し、1934年に日本ミシン製造を設立できた。
- Q なぜ1992年に、撤退寸前の事務機器をFAX-600の399ドルで立て直したのか
- A 情報通信機器への参入から4年連続で赤字が続き、あと1年で撤退という瀬戸際だったからである。退路がないなら値段で勝つほかないと判断し、相場700〜800ドルの米国市場に絞って、399ドルから逆算してコストを削る設計を採った。1992年に投入したFAX-600は半年で15万台を超え、のちに米国シェア首位へ届いた。ミシン用に蓄えた加工技術で安く作る型が、撤退寸前の事務機器を救った。
- Q なぜ2015年に、自前技術の転用ではなく1,932億円の英Domino買収で産業用印刷へ進んだのか
- A 自前の加工技術を異領域へ転用する従来の広げ方では、家庭用プリンターの成熟に間に合わなかったからである。ペーパーレス化で先行きが不透明になるなか、ブラザー工業は技術転用ではなく買収で次の柱を据える方針へ転じ、2015年に英ドミノプリンティングサイエンスを取得した。食品や飲料の包装に賞味期限やロット番号を刻む産業用印刷は自社の事業と重ならず、新興国の需要も見込めた。売上1兆円目標を実現する産業用印刷の足場を、1,932億円で買った。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1908年〜1957年 名古屋ミシン修理店から世界ブランドBROTHERへ──戦前期の事業基盤確立
安井ミシン商会と家庭用ミシン国産化の達成
1908年4月、熱田兵器廠の技師だった安井兼吉氏が職を辞し、名古屋市熱田区伝馬町に安井ミシン商会を開いた[1]。事業は中古ミシンを買い取って修理・販売することで、当時の精密加工技術が未熟だった日本市場ではシンガー社の輸入製品が大半のシェアを占め、国産化は手の届かない領域だった。長男・正義氏は九歳の頃から父のもとでミシンについて仕込まれている[2]。1925年、創業者の兼吉氏が逝去し、正義氏が家業を引き継いだ[3]。正義氏の弟5人と妹4人の計10人がミシン修理業に加わり、熱田伝馬町の店を起点に兄弟経営の形が立ち上がった。同年11月の商号を安井ミシン兄弟商会への変更は、こうした兄弟体制の制度化であった[4]。
1928年1月、不況でミシン修理需要が縮小するなか、安井兄弟は部品加工用の自由エキセン旋盤の内製化に成功し、麦わら帽子製造用の環縫ミシン(昭三式)を自社開発して販売を始めた[5]。商標「BROTHER」も1930年代前半に制定された。旋盤を自社で抱えて加工設備から組み上げる方式が、後の自社の工作機械内製化路線の起点となる。1932年11月、シンガー社が市場の約90%を握り外貨流出が経済課題として議論されるなか、正義氏は家庭用本縫ミシン「15種70型」を完成させ、家庭用ミシンの国産化に到達した[6]。戦時体制への移行のなかでシンガー社が日本市場から撤退すると、安井兄弟はその空白を取り込むべく組織を株式会社化し、1934年1月に名古屋市瑞穂区で日本ミシン製造を設立した[7]。創業から26年、修理店から国産メーカーへ転じる節目の法人化であった。
国産化の達成から法人化までの間には、量産体制を支える設備投資があった。1933年、安井兄弟は名古屋市堀田に約300坪の工場を建設し、同年秋には念願の国産家庭用ミシンの量産化に乗り出した[8]。正義氏が29歳のときである[9]。個人経営では家庭用ミシンの量産を支えきれないと判断し、組織を株式会社へ改めた。1934年1月15日の日本ミシン製造の創立にあたり、正義氏は専務取締役に就き[10]、公称資本金は24万円、払込みは6万円であった[11]。設備から組織まで自前で整える流儀が、後の工作機械内製化や事業多角化の素地となった。
戦中・戦後復興期の事業多角化と販売別法人化の伏線
1936年12月、日本ミシン製造は工業用本縫ミシンの製造を開始し[12]、家庭用に偏らない工業用ミシン事業の柱を立ち上げた。1941年7月、ミシンの国内販売を担うブラザーミシン販売(後のブラザー販売)を別法人として設立した[13]。販売子会社の経営はシンガー社出身の営業マンに委ね、製造側との資本関係は希薄なまま運営された。製造と販売を別法人に分ける構造はミシンの全国流通を加速させた一方、製造側が販売現場をコントロールしにくい弱点を残し、その負債処理は1999年4月のブラザー販売100%子会社化まで持ち越された[14]。
日中戦争から太平洋戦争にかけては、工業用ミシンの製造で軍需に応じる時期が続いた。1939年には名古屋市南区浜田町に星崎工場を新設してテーブルの製造を始め[15]、ミシン本体以外の部材へも手を広げた。1942年に軍の管理工場の指定を受け、以後は一貫して工業用ミシンの製造に従事する[16]。1945年には戦災で工場の過半数を焼失したが、ただちに復興へ着手した[17]。1947年にはミシンの優秀性が認められて商工大臣賞を受け[18]、1949年には物価庁から最優秀ミシンとして特級品の指定を受けるとともに再び商工大臣賞を受賞した[19]。戦後復興のなかで、品質を軸に再起していった。
戦後復興期、1947年5月に家庭用直線ミシンを上海向けに200台輸出して海外取引を再開した[20]。ミシンが夏に売れる季節商品であった事情から工場稼働率の平準化が課題となり、安井兄弟は精密加工の技術を別領域へ転用する道を選んだ。1954年4月にミシン製造の金属プレス技術を応用して家庭用編機・電気洗濯機の生産を開始[21]、1957年には冷蔵庫へも参入し、1970年代までは家電が売上の10〜20%を占める時期があった。同年5月、米国カリフォルニア州にブラザーインターナショナル(U.S.A.)を設立し、ミシン輸出の現地販売拠点を構えた。創業46年目の米国子会社設立で、後の北米市場での主力事業を支えるネットワークの起点を作った[22]。
1958年〜1996年 事務機器・タイプライター・複合機への業態転換と上場
自前技術の転用から始まった事務機器・工作機械への多角化
1958年10月、アイルランドにブラザーインターナショナルヨーロッパを設立して欧州市場参入の足場を作った[23]。1961年5月、米国輸出子会社の現地社長からの要請を受けて欧文ポータブルタイプライターの生産を開始した[24]。当時の米国では事務合理化の需要が広がり、安さで差別化する日本製タイプライターに受け皿があった。これがブラザーの事務機器事業の起点である。1962年7月、経営の多角化に合わせて社名を日本ミシン製造からブラザー工業に変更[25]、同年11月にはミシン製造のために内製していたタッピングマシンの外販を開始し、工作機械を独立した事業領域として切り出した[26]。1963年1月、東京・名古屋・大阪の三証券取引所に株式を上場し、創業55年で資本市場での調達経路を整えた[27]。
1965年8月にコンパクト電動タイプライターの米国向け輸出を本格化[28]、1966年6月には電子卓上計算機の生産を開始してエレクトロニクス領域へ踏み込んだ[29]。1968年には経営不振だった英ジョーンズ・ソーイングマシン社(英国シェア2位)の株式42.5%を取得し、欧米でのミシン販売シェア確保を狙う初の本格的な海外買収を実施、1972年までに過半数取得の方針を公表した。1971年2月、米セントロニクス社向けのOEMとして高速ドットプリンターの生産を開始した[30]。事務機器の主役がタイプライターからプリンターへ移る転換期で、これが現主力のP&S事業の起点となる。1971年のニクソンショックを起点とする円高ドル安でミシン輸出の採算が悪化したため、1978年11月に台湾で家庭用ミシン製造会社・台弟工業を新設し[31]、為替リスクを抑える海外生産の試みが始まった。
1983年の業態転換顕在化とFAX-600による事務機器の救済
1983年度のブラザー工業の売上構成は、事務機器が39.3%とミシンの27.9%を上回り、創業以来の祖業をオフィス向けタイプライターが凌駕した。創業から75年で業態転換が数字に表れた節目であった。タイプライター輸出をめぐる日米貿易摩擦への対応として、1985年2月に英国・ブラザーインダストリーズ(U.K.)[32]、1986年9月に米国・ブラザーインダストリーズ(U.S.A.)をそれぞれタイプライターの製造拠点として設立した[33]。1987年3月の感熱ファクスOEM供給開始で情報通信機器分野へ参入[34]、同年8月には自社製コントローラーを搭載したモノクロレーザープリンターの生産を開始して[35]、後の主力事業の輪郭を形作った。1988年11月には熱転写技術を応用したラベルライター(P-Touch)の販売を始め[36]、ミシン用に蓄えた精密加工技術を異領域へ転用する流れを継続させた。
1989年、円高でタイプライター輸出の採算が悪化するなか、安井義博社長は「21世紀委員会」を発足させ、若手社員の発案を集めて長期計画を議論した。委員会から打ち出された3つの新規事業は「タケル」(ソフトウェアの通信販売)、カラーコピー機、ファクスである。1991年5月、カラーコピー機の開発は100億円を投じて挫折し、製造の新規事業として残ったのはFAXだけだった。1992年、撤退案も議論された事務機器部門を立て直したのが、菅原徹明氏率いる画像システム事業部の「FAX-600」である。米国市場の主流価格799ドルに対し、市場調査から「安さに需要あり」と判断、399ドルで投入する逆算設計を採った。部品調達と工程進捗を並行管理し、製造拠点には1991年12月に設立した中国・珠海兄弟工業ではなく、深圳の南嶺工場での委託生産を選んだ[37]。米国FAX市場をブラザーが席巻する契機となり、1995年3月には小型レーザー複合機(ファクス・プリンター・コピー・スキャナー)の生産を始めて複合機事業の起点を作った[38]。1992年5月にはタケルから派生した株式会社エクシングを設立し、ディスク型から通信型への過渡期にあった通信カラオケ事業で通信型に絞って参入[39]、同年10月には業界初のISDN回線を利用した通信カラオケの販売を始めた[40]。エクシング事業はFY1996に最終赤字32億円を抱えるなど立ち上げは平坦ではなく、現在のN&C事業の出発点となった。
1997年〜2024年 グローバルビジョンと中期戦略連鎖による事業構造変革
製版分離の解消と中期戦略連鎖の起点
1997年2月、ブラザー工業は中期戦略「CS B2000」(思い切った挑戦と明日への戦略)を策定し、以降10次に及ぶ中期計画連鎖の起点を作った[41]。1997年11月、自社製インクジェットヘッドを搭載したカラーインクジェット複合機「MFC-7000FC」を販売開始[42]、米国市場で1,000ドル未満の価格設定で市場開拓を狙った。1999年1月にはブラザーグループ グローバル憲章を制定し、世界展開を前提とした統治原則を整えた[43]。
1999年4月、ブラザー工業はミシン事業低迷で経営危機に陥っていたブラザー販売の救済を決定し、株式の完全取得によって100%子会社化した[44]。1941年から半世紀続いた製版分離はここで終止符を打たれ、製造側が販売現場をコントロールできるようになる一方、ブラザー販売が抱えていた有利子負債635億円をブラザー工業が引き取る代償が伴った。2000年3月の中期戦略「CS B2002」では社内カンパニー制・執行役員制・社外取締役を導入[45]、2000年代初頭の日本企業としては早期のガバナンス改革に踏み込んだ。2001年9月に中国・兄弟ミシン(西安)、2002年10月に兄弟工業(深圳)を設立して中国生産網を拡張[46]、2002年6月の長期ビジョン「グローバルビジョン21」(売上1兆円目標)が以降の海外展開とM&Aの方向を規定した[47]。2003年3月、中期戦略「CS B2005」(高収益と将来技術投資の両立)を策定、米国SOHO向けインクジェットプリンター・複合機の好調で同年度に19期ぶりの最高益を達成した[48]。
小池利和社長体制と英Domino 1,932億円買収
2007年6月、1990年代を通じて米国でFAX・複合機・インクジェットプリンターの事業責任者を務めた小池利和氏(1979年入社、ブラザーインターナショナル(U.S.A.)取締役社長を歴任)が代表取締役社長に就任した[49]。在任11年(2007年6月〜2018年6月)の小池社長在任中に、ブラザーは「日本発のグローバル小型精密機械メーカー」としてのポジションを固めた[50]。2005年7月にはインクジェット技術を応用したガーメントプリンターを販売開始、産業用印刷の足がかりを置き[51]、2006年1月にはベトナム・ブラザーインダストリーズ(ベトナム)でモノクロレーザープリンター製造を始め[52]、中国一辺倒だった生産拠点を東南アジアへ分散させた。2006年10月、株式の所属業種を機械から電気機器に変更し、事業実態を市場区分に合わせた[53]。
2008年3月策定の中期戦略「CS B2012」(グローバルビジョン21の実現)は売上1兆円目標を継承[54]、2008年6月のHOYAからのモバイルプリンター事業譲受でプリンティング分野を補強した[55]。リーマンショック後の2009年3月期には連結売上が4,463億円へ縮小、その立て直しを目的に2011年3月策定の「CS B2015」(成長への再挑戦)が運用された[56]。2013年1月、株式公開買付でニッセイを連結子会社化し、工業用部品事業を取り込んだ[57]。
2015年6月、ブラザー工業は英国の業務用印刷機メーカー・ドミノプリンティングサイエンスの全株式を1,932億円で取得し連結子会社化した[58]。Domino社は食品包装向けプリントを欧州中心に展開し、FY2014の売上648億円・営業利益率約20%を持つ企業で、家庭用プリンター市場の成熟に備えた産業用印刷への布石であった。買収資金は借入で調達し、8年での返済計画が公表された。同社の取得は2002年策定の「グローバルビジョン21」で掲げた売上1兆円目標を実現する切り札と位置付けられ、ブラザーの歴史で最大級のM&Aとなった。2015年6月には取締役会の諮問機関として指名委員会・報酬委員会を設置、同年11月にコーポレートガバナンスの基本方針を制定して[59]、Domino取得後のグループ経営体制を整えた。2016年1月には中国・ドミノプリンティングテクノロジー(常熟)を設立して中国の産業用印刷拠点を構築、2016年3月の中期戦略「CS B2018」(変革への挑戦)はDomino事業の収益化を主題に据えた[60]。
佐々木一郎・池田和史社長体制とDominoのれん減損
2018年6月、英国法人社長と本社NID開発部長を歴任した佐々木一郎氏(1983年入社)が代表取締役社長に就任した[61]。在任6年(2018年6月〜2024年6月)で、コロナ禍対応と2019年3月策定の中期戦略「CS B2021」(次なる成長へ向けて)の運用を担った[62]。2021年3月期、ブラザー工業はドミノ事業の収益進捗の遅れを理由に、Dominoのれん総額746億円のうち272億円を減損計上した。FY14売上648億円・営業利益率約20%という買収時のドミノ社の収益性は、買収後の景気循環と為替変動の影響で目論見に届かず、買収から6年で約3分の1ののれんが減損された。FY20(2021年3月期)の連結業績は売上6,318億円・営業利益427億円・純利益245億円で、コロナ禍によるリモートワーク移行で個人プリンター需要は増加した一方、業務用複合機・工業用ミシン・ドミノ事業の業績は急減した。
2018年4月にはブラザーグループ環境ビジョン2050を策定し、2030年度の中期目標を据えた[63]。2019年4月、コーンズテクノロジーから国内ドミノ事業を譲受してブラザーインダストリアルプリンティングを開業、国内産業用印刷の自社化を完了させた[64]。2021年12月から2022年2月にかけて株式公開買付でニッセイを完全子会社化し、2013年に連結化した工業用部品事業をグループに統合した[65]。2022年4月、東証市場区分の見直しでプライム市場へ移行、同月に長期ビジョン「At your side 2030」を始動した[66]。2022年5月策定の中期戦略「CS B2024」(新しい未来へのテイクオフ)は、Domino減損後の事業構造再編を主題に据え[67]、ドミノ事業の収益化とP&S事業の主力転換を併走させる方向を示した。
2024年6月、米国・ドイツ子会社経営を歴任した池田和史氏(1985年入社)が代表取締役社長に就任した[68]。佐々木一郎前社長は取締役副会長に転じている[69]。池田社長は1990年代を米国でFAX・複合機事業の責任者として小池利和氏のもとで実務を積み、ブラザーインターナショナル(U.S.A.)取締役社長・同会長を歴任した米州事業の叩き上げで[70]、平田・小池・佐々木各氏と続いた海外現法経営経験者を社長に据える選抜慣行を継ぐ4代目となる。在任1年余りで、業績はFY23(2024年3月期)売上8,229億円・営業利益498億円・純利益316億円からFY24(2025年3月期)売上8,766億円・営業利益699億円・純利益548億円へ、売上6.5%・営業利益40.4%・純利益73.1%の改善を達成した。2024年12月にはブラザーマシナリー(インド)で工作機械の生産を開始し、生産拠点をインドへ広げた[71]。2025年3月策定の中期戦略「CS B2027」(挑む。未来へ)は、Domino減損後の産業用印刷の収益化[72]、家庭用プリンターからP&S事業全体への主力転換、工作機械・工業用部品の海外比率引き上げの3点を実行課題に据えた。創業以来最高水準の業績で次の中計運用期に入ったが、買収依存で広げた事業ポートフォリオを単一の収益基盤として束ね直す作業が、池田社長体制の中期的な論点として残る。