ブラザー工業の戦前は、資金の無さを技術の内製へ振り替えていった過程である。安井正義氏はミシンを作るための工作機械を買えず、製造第一号が工作機械になった。会社を興すために訪ねた銀行は、資本も信用も実績もない相手に金を貸さず、正義氏はそこから事業は借金でやるものではないという結論を引き出している。シンガー社の輸入品が市場の大半を占めるなかで家庭用本縫ミシンを完成させた1932年までに、設備から組織まで自前で揃える手順が固まった。国産化は技術の達成である前に、他人の資金と他人の部品に頼らない構えの帰結だった。
その構えは1945年に試された。設備の7割を焼かれ、1,600人いた従業員は150人まで減り、正義氏自身がミシン産業の復活は許されないと考えていた。それでも日本ミシン製造は終戦から4か月で生産再開の許可を得て、被服廠へ納めた部品の払い下げと、くず鉄同然で放出された軍需工場の機械を組み合わせ、1946年早々に同業より先へ出た。焼けたのは設備であって、部品を自分で作り機械を自分で選ぶ能力ではない。再開直後に月産200〜300台だった生産が1950年に4,000台、1955年に月産能力2万5,000台へ届いた速度は、戦前に積んだ自給の型がそのまま資産として残っていたことを示している。
1908年4月、熱田兵器廠の技師だった安井兼吉氏が職を辞し、名古屋市熱田区伝馬町に安井ミシン商会を開店した。事業は中古ミシンを買い取って修理・販売することで、当時の精密加工技術が未熟だった日本市場ではシンガー社の輸入製品が大半のシェアを占め、国産化は手の届かない領域だった。長男・正義氏は九歳の頃から父のもとでミシンについて仕込まれている。1925年、創業者の兼吉氏が逝去し、正義氏が家業を引き継いだ。正義氏の弟5人と妹4人の計10人がミシン修理業に加わり、熱田伝馬町の店を起点に兄弟経営の形が立ち上がった。同年11月の商号を安井ミシン兄弟商会への変更は、こうした兄弟体制の制度化であった。
1928年1月、不況でミシン修理需要が縮小するなか、安井兄弟は部品加工用の自由エキセン旋盤の内製化に成功し、麦わら帽子製造用の環縫ミシン(昭三式)を自社開発して販売を開始した。商標"BROTHER"も1928年に制定された。旋盤を自社で抱えて加工設備から組み上げる方式が、後の自社の工作機械内製化路線の起点となる。1932年11月、シンガー社が市場の約90%を握り外貨流出が経済課題として議論されるなか、正義氏は家庭用本縫ミシン"15種70型"を完成させ、家庭用ミシンの国産化に到達した。戦時体制への移行のなかでシンガー社が日本市場から撤退すると、安井兄弟はその空白を取り込むべく組織を株式会社化し、1934年1月に名古屋市瑞穂区で日本ミシン製造を設立した。創業から26年、修理店から国産メーカーへ転じる節目の法人化であった。
国産化の達成から法人化までの間には、量産体制を支える設備投資があった。1933年、安井兄弟は名古屋市堀田に約300坪の工場を建設し、同年秋には念願の国産家庭用ミシンの量産化に乗り出した。正義氏が29歳のときである。個人経営では家庭用ミシンの量産を支えきれないと判断し、組織を株式会社へ改めた。1934年1月15日の日本ミシン製造の創立にあたり、正義氏は専務取締役に就任し、公称資本金は24万円、払込みは6万円であった。設備から組織まで自前で整える流儀が、後の工作機械内製化や事業多角化の素地となった。
1936年12月、日本ミシン製造は工業用本縫ミシンの製造を開始し、家庭用に偏らない工業用ミシン事業の柱を立ち上げた。1941年7月、ミシンの国内販売を担うブラザーミシン販売(後のブラザー販売)を別法人として設立した。販売子会社の経営はシンガー社出身の営業マンに委ね、製造側との資本関係は希薄なまま運営された。製造と販売を別法人に分ける構造はミシンの全国流通を加速させた一方、製造側が販売現場をコントロールしにくい弱点を残し、その負債処理は1999年4月のブラザー販売100%子会社化まで持ち越された。
日中戦争から太平洋戦争にかけては、工業用ミシンの製造で軍需に応じる時期が続いた。1939年には名古屋市南区浜田町に星崎工場を新設してテーブルの製造を始め、ミシン本体以外の部材へも手を広げた。1942年に軍の管理工場の指定を受け、以後は一貫して工業用ミシンの製造に従事する。1945年には戦災で工場の過半数を焼失したが、ただちに復興へ着手した。1947年にはミシンの優秀性が認められて商工大臣賞を受け、1949年には物価庁から最優秀ミシンとして特級品の指定を受けるとともに再び商工大臣賞を受賞した。戦後復興のなかで、品質を軸に再起した。
ミシンの国産化を事業にするため、正義氏は会社の設立に先立って銀行へ借入の交渉に出向いている。将来もうかる自信があるかと問われて自信はないと答え、個人保証を求められると保証するほどの資金があれば借りに来ないと返したため、資本も信用も実績もない相手として融資は断られた。この交渉から正義氏は、事業は借金でやるものではないという教訓を引き出した。1936年には、ミシンを売っても代金が現金にならない販売上の紛争が起き、作った台数がそのまま資金に変わらないことを経験する。部品を外注に出せば思いどおりの精度が得られないとして下請けを使わなかったことも、同じ判断の延長にあった。自分で作ったものを自分で売り、資金は自分で貯めるという型は、設立前後の行き詰まりから組み上がった。
1945年の空襲で、日本ミシン製造は全工場設備の7割に及ぶ被害を受けた。1,600人ほどいた従業員のうち残ったのは150人ほどで、工場と呼べる状態ではなかった。ミシンの設備は兵器生産へ容易に転用できるため、正義氏は占領軍がミシン産業の復活を認めないのではないかと考えていた。当面は焼け残りの機械で配給の小麦をひく手回し式の製粉機と電気コンロを作り、一時期は三菱電機の下請けとして電気ストーブも手がけた。ところが終戦から4か月後の1945年末、連合軍総司令部はミシン製造の再開を許可する。賠償指定も接収も免れていたうえ、軍の管理工場だった時期に被服廠へ納めた工業用ミシンの部品が焼けずに大量に残り、無償で払い下げを受けられたため、1946年早々に他社へ先んじて生産へ戻った。
再開直後の生産は月産200〜300台にとどまり、特約店が現金を握って会社へ押しかけ、出来上がるのを待ちかねて持ち帰るほどの品不足が続いた。物価は統制されていたが町のミシン店で定価を守るところはなく、会社にもヤミ値でよいという注文が絶えず入った。量産を支えた設備は、終戦直後に三菱重工業をはじめとする軍需工場の機械がくず鉄同然の値段で放出された折、使い道も決めないまま資金を工面して買い集めたものだった。1950年7月に瑞穂工場が稼働すると月産規模は4,000台に達し、生産再開から四年半で戦前のピークの二倍を超え、その半分近くを輸出へ回した。同年9月、正義氏は日本ミシン製造の4代目社長に就任する。1955年には月産能力2万5,000台を備え、生産数量は国内首位を続けていた。
戦後復興期、1947年5月に家庭用直線ミシンを上海向けに200台輸出して海外取引を再開した。ミシンが夏に売れる季節商品であった事情から工場稼働率の平準化が課題となり、安井兄弟は精密加工の技術を別領域へ転用する道を選んだ。1954年4月にミシン製造の金属プレス技術を応用して家庭用編機・電気洗濯機の生産を開始、同年5月には米国カリフォルニア州にブラザーインターナショナル(U.S.A.)を設立し、ミシン輸出の現地販売拠点を開設した。創業46年目の米国子会社設立で、後の北米市場での主力事業を支えるネットワークの起点を作った。ミシンの販路へ家庭電器を乗せる形はその後も残り、1977年11月期でも家庭電器が売上高の18.1%を占めた。
ブラザー工業の多角化は、新しい市場を探して始まったのではなく、既にある設備と販路の空きを埋める形で進んだ。家庭電器は電動ミシン用モーターの応用から、欧文タイプライターはミシンと編機の技術の合流から出ている。電動オルガンに至っては、モーターも生産設備もプレス技術も買い手の主婦もミシンと同じだった。本業に余裕が出たときへ空いた畔に大豆を播くようなこの広げ方は、1955年ごろから直営店と資本提携店へ置き換えていった販売網があって初めて成り立つ。1965年に売上の8割を自前の店から上げる流通を握ったことが、ミシン以外の品目を流す条件だった。
余力で広げるという原則は、1976年の電子式ミシンで販売促進の号令をかけず、リッカーに国内シェアの6割強を渡す消極策にまで及んだ。損をしない仕事を選ぶ基準は、1977年11月期に売上高1,018億2,600万円、5部門すべてが収益源という構成を作っている。だがこの原則は1982年度の5カ年計画で反転した。輸出を総売上高の3分の1に抑える考えを捨てて50対50を掲げたところ、1984年度上期には輸出が60%、情報機器が商品構成の約半分を占めた。計画より速い転換に開発費が追いつかず、1983年には1965年以来18年続いた無借金を解いて転換社債200億円を発行している。自給自足の最後の条件を外させたのは、競争相手ではなく自社の成長速度だった。
1961年前半、日本ミシン製造は欧文ポータブルタイプライターと学校教育用精密小型旋盤で、事務用機器と工作機械の2分野へ同時に進出した。事務機では高い精度を要する活字のプレス技術だけを持っておらず、ヨーロッパの活字専門メーカーから買えばただちに生産へ入れたが、その最短距離を取らずに活字の製造技術へ自ら取り組んだ。ミシン製造に要る工作機械を買う金がなく、製造した第一号がその工作機械だった。この出発点から、必要な技術は回り道をしてでも社内に取り込むという判断が、以後も繰り返されることになる。1958年に米国の雑誌に載った自動加工ラインの記事を頼りに、同じ設備を手探りで自前で組み上げたのも、その一例である。回り道を重ねた末、世界全体で作られる欧文タイプライターの10分の1が同社製となった。
1961年7月、名古屋市瑞穂区堀田通に新しい本社ビルが竣工した。1959年9月の伊勢湾台風では山崎川の決壊で本社一階と各工場が浸水し、数日間の全工場操業停止と1億7,700万円の被害を出していたため、新ビルは一階の床を路面より80センチ高くした。多角化が進むと日本ミシン製造という商号が事業の範囲を映さなくなり、管理職全員へのアンケートを経て、1962年7月に商号をブラザー工業へ改めた。株式公開には正義氏自身が消極的だったが、弟で副社長の実一氏が同族経営はもう限界だとして積極論を唱え、1963年1月に東京・大阪・名古屋の三証券取引所第二部へ上場、翌1964年4月に第一部へ昇格した。ミシンを主業とするメーカーでは3番目の株式公開であった。
販売の側では、1955年ごろから特約店への依存を直営と資本提携へ置き換える方針が取られた。戦前から現金取引と保証金を条件に一流の特約店を押さえてきたため成績は順調だったが、正義氏はこのままの特約店網では今後の競争に耐えられないと判断した。特約店を刺激しないよう、まず成績の悪い地域や販売地盤の弱い地域へ直営店を出し、断りにくい特約店には資本を投入して直営店と同じ働きをさせる手順を取った。置き換えを重ねた結果、1965年には売上の80%が直営店と資本提携店から上がる構造になった。正義氏は1950年の訪米で家庭電化製品が伸びると確信しながら、販売網の弱さを理由に生産へ踏み切っていない。流通が自前になって初めて、ミシン以外の品目を同じ経路へ流せるようになった。
多角化の品目は、技術と販売の両面で既存の事業と共通するものに限られた。家庭電器は電動ミシン用モーターの応用から出発し、ミシンと編機の技術を総合して欧文タイプライターが開発された。電動オルガンでは、ミシンのモーターと、ミシンテーブルの生産設備と、音を出す笛のプレス技術がそのまま転用でき、買い手もミシンと同じ家庭の主婦で販路を使い回せた。この広げ方は、本業ではなく余力でやるという基本思想に立つもので、本業に余裕が出たときへ空いた畔に大豆を播く形に近かった。編機・タイプライター・電卓・洗濯機・扇風機まで、品目の広がりはすべてこの発想から出ていた。既存の設備と販路の隙間を探して種を播く手順が、装置として反復された。
本業のミシンが売上の4割を切っても収益が崩れなかったのは、非本業の各部門がそれぞれ収益源になっていたからである。1968年5月期に193億円だった売上高の内訳は、ミシン39%、家庭電器24%、編機19%、事務機11%、工作機械ほか7%だった。1977年11月期には売上高が1,018億2,600万円へ伸び、ミシン37.1%、事務機18.6%、家庭電器18.1%、工作機械ほか16.2%、編機10.0%と、事務機と工作機械の比重が上がった。国内シェアは編機56%、家庭用ミシン33%、欧文タイプライター31%がいずれも首位、電動オルガンは22%で第二位を争った。ブラザー工業とブラザーミシン販売を合わせた1977年度の経常利益147億1,700万円は、蛇の目ミシン工業の54億8,200万円、リッカーの28億5,200万円を上回っていた。
1976年3月、ブラザー工業はリッカーとほぼ同時期に電子式ミシンを発売しながら、販売促進の号令をかけなかった。新製品の販促に大号令をかけると新製品は売れるが既存商品の販売活動がおろそかになり、全体では差し引き損になるという体験から、新製品は余力で売るという教訓を守ったためである。1977年の電子式ミシンの国内推定シェアはリッカーが6割強、ブラザーが3割強にとどまり、家庭用ミシン全体でもブラザーのシェアは二年前より2ポイント低い33%へ下がった。安井実一社長のもとで、シェアの低下は一時的なものとみなされ、顧客の望む製品であれば売上は確実に伸びるという読みに置かれた。もうかる仕事は競争相手を呼んで長続きしないため損をしない仕事を選ぶという基準が、この消極策の下敷きにあった。
1982年度、ブラザー工業は創立50周年を機に5カ年計画を策定した。立案の時点では為替相場の変動、金利の大幅な上下動、物価の変動が予想を超えて連続し、電子技術の革新と流通の細分化が同時に進む局面にあったため、前半の2年半を助走期間とし後半に加速する設計とした。4〜5年前まで輸出は不安定だから総売上高の3分の1でよいとしていた考え方を改め、輸出と国内販売の比率を50対50へ引き上げることを掲げた。商品構成はミシン3分の1、事務機器3分の1、その他3分の1とし、その他には約250億円の新製品を織り込んだ。最終年度の目標は売上高2,200億円、税引後利益100億円である。その前の1980年には平田源一社長が需要開拓に重心を置いた新三カ年計画を掲げ、製品の電子化を当面の課題としていた。
18年続いた無借金経営は、この計画の資金需要の前で崩れた。1965年に長短借入金を貸借対照表から消して以来、ブラザー工業は完全な無借金を保ってきたが、技術革新で製品のライフサイクルが短くなり、新製品が一つできた時点で第二弾・第三弾を用意しなければ立ち遅れる状況となって、製品開発費は従来の2〜3倍を要するようになった。設備投資を減価償却と留保利益の範囲に収める従来の原則では足りず、1983年に無借金の基本方針を転換して銀行借入を実行し、続いて国内150億円とスイスフラン建て50億円相当の転換社債200億円を発行した。組織も同時に組み替え、事業部制を敷き、大卒者の採用を年25〜50人から年150人へ増やして技術陣を厚くした。設備投資額は1983年度の90億円弱から1984年度・1985年度は各140〜150億円へ引き上げ、その約4割を情報機器の生産設備へ充てる計画とした。
輸出の拡大は摩擦を招いた。米国へ輸出していた電動タイプライターは1979年ごろからダンピングの対象とされ、相手が十分満足する水準まで値上げして応じたが、その後も数量・金額とも伸び続けた。1984年にはヨーロッパで電子タイプライターについて新たにダンピング問題が起き、年末ごろに判定が出る見通しとなった。1984年度上期の実績は輸出が60%、国内販売が40%と、計画に掲げた50対50から逆の方向へ開き、商品構成でも情報機器が約半分を占めて3分の1ずつの形は崩れていた。河嶋勝二社長のもとで、貿易摩擦の緩和と海外生産拠点の拡充の両面から、どの機種をどういう生産方式でどこの国で作るかの検討が進み、年内に結論を出す段階にあった。ミシンの会社が情報機器の会社へ替わる速度は、経営側が敷いた計画の想定を追い越していた。
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|---|---|---|---|---|
| 1908〜1957年名古屋ミシン修理店から世界ブランドBROTHERへ──ミシン国産化と戦後復興期の事業基盤確立 | 安井ミシン商会を創設 | ★ | ||
| 商号を安井ミシン兄弟商会に変更 | ★ | |||
| 昭三式ミシン(麦わら帽子製造用環縫ミシン)の販売を開始しBROTHERを商標化 | ★ | |||
| 家庭用ミシンの国産化に成功 | ★★ | |||
| 日本ミシン製造(後のブラザー工業)を設立 | ★ | |||
| 工業用本縫ミシンの製造を開始 | ★ | |||
| 国内販売会社ブラザーミシン販売(後のブラザー販売)を設立 | ★ | |||
| 家庭用直線ミシンを上海向けに200台輸出 | ★ | |||
| 安井正義 | 家庭用編機・電気洗濯機の生産を開始 | ★ | ||
| 安井正義 | ブラザーインターナショナルコーポレーション(U.S.A.)を設立 | ★ | ||
| 1958〜1988年工作機械の内製と直営販売網を元手にした多角化、三証券取引所上場から情報機器への主力交代 | 安井正義 | アイルランドにブラザーインターナショナルヨーロッパを設立 | ★ | |
| 安井正義 | ミシン輸出累計100万台を突破 | ★ | ||
| 安井正義 | 欧文ポータブルタイプライターの生産を開始 | ★★ | ||
| 安井正義 | 社名をブラザー工業に変更 | ★ | ||
| 安井正義 | 工作機械分野に参入 | ★★ | ||
| 安井正義 | 東京・名古屋・大阪の三証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 安井正義 | 電子卓上計算機の生産開始 | ★ | ||
| 安井正義 | セントロニクス社と共同開発した高速ドットプリンターの出荷を開始 | ★★ | ||
| 安井実一 | ブラザーインダストリーズを設立 | ★ | ||
| 安井実一 | 家庭用ミシン製造会社台弟工業を設立 | ★ | ||
| 平田源一 | 家庭用コンピューターミシンの生産開始 | ★ | ||
| 河嶋勝二 | CNCタッピングセンターの販売開始 | ★ | ||
| 河嶋勝二 | 感熱ファクスのOEM供給を開始 | ★ | ||
| 河嶋勝二 | 自社製コントローラー搭載モノクロレーザープリンターの生産開始 | ★ | ||
| 河嶋勝二 | 熱転写技術を応用したラベルライターの販売開始 | ★ | ||
| 1989〜2005年安井義博の「21世紀委員会」によるレーザー複合機・通信カラオケへの選択と集中 | 安井義博 | ミシン・タイプライターから情報通信機器への業態転換 1989年に第8代社長へ就任した安井義博氏のもと、ブラザー工業がミシン・タイプライターから情報通信機器(プリンター・複合機)へ主力を移した業態転換。失敗を罰しない文化と社長直轄の新事業育成で、情報機器への選択と集中を進めた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |
| 安井義博 | コンピューター刺しゅう機付きミシンの販売開始 | ★ | ||
| 安井義博 | 通信カラオケ事業に参入 | ★★ | ||
| 安井義博 | 自社製エンジン搭載モノクロレーザープリンターの生産開始 | ★ | ||
| 安井義博 | ファクス・プリンター・コピー・スキャナー機能を持つ小型レーザー複合機の生産開始 | ★ | ||
| 安井義博 | 自社製インクジェットヘッド搭載カラーインクジェット複合機の販売開始 | ★★ | ||
| 安井義博 | 中期戦略「CS B2002」を策定し社内カンパニー制・執行役員制・社外取締役を導入 | ★ | ||
| 平田誠一 | プリンターのインクジェット技術応用ガーメントプリンターの販売開始 | ★ | ||
| 2006〜2026年深圳の自社生産とカラーレーザー、ドミノ・ニッセイ買収とローランドDG争奪 | 平田誠一 | レーザープリンター生産委託を自社運営に転換し兄弟高科技(深圳)を設立 | ★ | |
| 平田誠一 | 自社製カラーレーザーエンジン搭載カラーレーザープリンター・複合機の販売開始 | ★ | ||
| 小池利和 | HOYAからモバイルプリンター事業を譲受 | ★ | ||
| 小池利和 | エクシングがBMBを買収し子会社化 | ★ | ||
| 小池利和 | 株式公開買付でニッセイを子会社化 | ★★ | ||
| 小池利和 | エクシングがテイチクエンタテインメントを子会社化 | ★ | ||
| 小池利和 | ドミノプリンティングサイエンスを子会社化 | ★★ | ||
| 佐々木一郎 | コーンズテクノロジーから国内ドミノ事業を譲受 | ★ | ||
| 佐々木一郎 | 株式公開買付でニッセイを完全子会社化 | ★ | ||
| 佐々木一郎 | ブラザーグループビジョン「At your side 2030」を始動 | ★ | ||
| 佐々木一郎 | 対抗TOBの提案と、その取り下げによる買収競争からの離脱 2024年3月13日、ブラザー工業が、MBOによる非公開化を進めていた産業印刷機中堅のローランド ディー.ジー.(DG)に対し、1株5200円での対抗TOBを予告した経営判断。両社に事前の合意はなく、いわゆる"同意なき買収"となったが、ブラザーは5月に価格を引き上げないと決め、提案を取り下げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 池田和史 | ブラザーマシナリーで工作機械の生産を開始 | ★ | ||
| 池田和史 | 監督の担い手を取締役会の内側へ移し、執行へ権限を委ねる機関設計の組み替え 2026年6月24日に開いた第134回定時株主総会の決議により、監査役会設置会社から監査等委員会設置会社へ移行した。取締役の職務執行の監査等を担う監査等委員が取締役会の構成員として議決権を持つことで取締役会の監督機能を一層強化し、経営上の重要な事項について多角的な審議を行う体制とした。 併せて取締役会から執行部門への権限委任により、迅速・果断な業務執行の意思決定を可能とする体制整備を進める。移行前の取締役は10名でうち社外は5名だったが、移行後は取締役12名のうち7名を社外取締役が占める。 詳細を読む |
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事実根拠:出所(ブラザー工業)