重要な意思決定
1962

水島廣雄氏が社長就任

背景

前社長急逝後の株主間対立が大和銀行の経営支配を巡る法廷闘争に発展

1960年に坂内社長が急逝し、副社長であった若菜氏が昇格する形で社長に就任した。若菜氏は大和銀行出身であり、同銀行は当時そごう株式の約10%を保有する大株主であった。戦後の資金難の局面で支援を行ってきた経緯から、大和銀行は経営に対して発言力を持つ立場にあった。

しかし、この人事は必ずしも社内外の合意を得たものではなかった。少数株主の一部は、大和銀行の意向が強く反映された人事であるとして異議を唱えた。経営トップの選任を巡る不透明さが指摘され、株主間の対立が表面化したことで、社内の統治構造にも動揺が広がった。

さらに問題となったのは、大和銀行グループによる実質的な持株比率である。銀行本体に加え、関連会社の持分を合算すると20%近くに達する可能性があり、銀行による一般事業会社株式保有の規制との関係が論点となった。これにより、法令解釈を巡る議論が起こり、対立は一段と深刻化した。

決断

興銀出身の水島廣雄を株主間紛争の調停役として社長に据えた人事の論理

株主間の対立が長期化するなか、関西財界の有力者による仲裁が模索された。最終的に提示された案は、若菜氏が退任し、新たな経営体制を構築するというものであった。これにより、対立の象徴となっていた人事問題をいったん整理することが図られた。

1962年、水島廣雄氏が社長に就任した。水島氏は日本興業銀行出身であり、そごう副社長として経営に関与していた人物である。また、大株主であった板谷家との関係を有していたことから、主要株主間の調整役として適任と判断された。

あわせて、大和銀行は保有株式の一部を野村証券へ売却し、持株比率を引き下げた。これにより、銀行の影響力を縮小する一方、少数株主側は提訴を取り下げることで合意した。経営体制の再編と株主構成の調整を同時に進めることで、対立の収束が図られた。

結果

調停役として着任した水島が30年に及ぶ長期政権と借入拡張路線を確立

水島社長の就任により、そごうは大株主の直接的な関与から一定の距離を置く体制へ移行した。これにより、経営判断は社内主導で行われる余地が広がった。1962年以降、水島氏は長期にわたり社長を務め、経営の継続性が確保されることとなった。

新体制のもと、そごうは地方都市への進出を本格化させた。銀行借入を活用し、新規出店を通じて売上規模の拡大を図る戦略が採用された。高度経済成長期の消費拡大を背景に、店舗網は急速に広がっていった。

一方で、出店に伴う多額の投資と借入金の増加は、財務負担を積み上げる構造でもあった。拡張を優先する経営判断は、短期的には規模拡大を実現したが、資本効率や投資回収の観点では課題を残した。この体制は、後年の経営課題の前提条件を形成することとなった。