1830年 大和屋(古手店)を創業

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近江出身の初代十合伊兵衛が、1830年に大坂船場の坐摩神社前で古手商「大和屋」を開業。1877年に4代目が屋号を「十合呉服店」へ改めて新品呉服へ転じ、1930年12月に村野藤吾設計の心斎橋本店を新築、過大な建築投資で1935年に十合家は経営権を失い板谷家へ移った。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 1830年(天保元年)、初代十合伊兵衛が大坂船場の坐摩神社前で古手(古着)を扱う「大和屋」を開業した。船場は新品呉服を支配する三井越後屋系の老舗と、振売・仲買が集まる古手流通の二層が併存する商人町で、初代は参入障壁の低い古手領域から信用と資金を積み上げる経路を選び、4代続く十合家商家の祖業となった。
  • 1877年(明治10年)、4代目伊兵衛が屋号を「十合呉服店」へ改め、古手から新品呉服へ業態を転じた。維新後の身分制度解体と洋装の浸透で古手市場の天井が見え、坐摩前で積み上げた商圏と仲買網を心斎橋筋へ振り向け直し、上方呉服商の系譜に合流した。1919年(大正8年)には株式会社十合呉服店として法人化し、洋品・雑貨部門を新設して百貨店業態への転換に踏み込んでいる。
  • 1930年(昭和5年)、心斎橋筋2丁目に村野藤吾設計の地上8階・地下2階建て新本店を竣工、当時東洋一を称する百貨店建築として大阪の顔となった。1933年神戸店開業と前後する建築投資の重圧で1935年に十合家は株式を売却し創業家が退場、1940年に株式会社そごうへ改称、戦中の接収と空襲被害を経て1949年5月に大阪証券取引所に上場、創業119年目で公開企業として戦後復興に踏み出した。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

初代伊兵衛は古手という低参入領域から商売を始め、4代目伊兵衛が1877年に新品呉服へ、続いて1919年の法人化以降は百貨店業態へと二段階の業態転換で領域を引き上げた。1935年の創業家退場以降は外部資本主導の経営体制となり、戦時統制下で1940年に商号を「そごう」へ改めた。

1830 大和屋創業
1877 古手から新品呉服へ
1919 百貨店業態への転換
1935 創業家退場
1940 商号を「そごう」へ
資金調達 どう資金を工面したか?

創業期は伊兵衛個人の出資と古手仲買の信用取引で資金を回し、1919年に株式会社化して株式発行と銀行借入で心斎橋本店建築や神戸店出店の建築投資を賄った。1935年には建築費と土地取得負担で資金繰りが行き詰まり、十合家が保有株式を売却して経営権が板谷家へ移った。1949年5月、大阪証券取引所への上場で公開企業の資金調達基盤を整えた。

1830 個人出資で開業
1919 株式会社十合呉服店設立
1935 十合家が株式売却
1949.5 大阪証券取引所上場
製品サービス 何を作って売ったか?

1830年は坐摩前の古手商として日用着古着を扱ったが、1877年に新品呉服へ転じ、1919年の法人化と前後して洋品・雑貨・家庭用品を加え、1930年の心斎橋本店新築で食料品・喫茶・催事まで揃えた総合百貨店へ移行した。1940年の「そごう」改称で呉服色を脱し、戦後は接収解除後の心斎橋本店を基盤に総合小売を再開した。

1830 古手(古着)
1877 新品呉服
1919 洋品・雑貨・家庭用品
1930 総合百貨店(食品・催事)
主要顧客 誰に売ったか?

創業期の坐摩前の主要顧客は船場の奉公人・町人など日用古着の需要層で、1877年の呉服店改称以降は商家の家族や町方の女性客へ層を移した。1919年の法人化と心斎橋本店拡張で大阪市中心部の中産層を取り込み、1933年神戸店開業で阪神間の顧客にまで商圏を広げた。

1830 船場の奉公人・町人
1877 商家の家族・町方の女性客
1930 大阪市中心部の中産層
1933 阪神間の中産層
従業員数 誰と作っていたか?

1830年の創業時は初代伊兵衛と数名の手代・小僧の体制から出発し、1877年の十合呉服店改称後は呉服販売の番頭と手代が増えた。1919年の株式会社化と1930年の心斎橋本店新築で売場・後方部門を含む数百名規模へ拡大し、1949年上場時は心斎橋本店と神戸店を抱える上方主力百貨店として千名超の体制を擁した。

1830 数名
1919 数十名規模
1930 数百名規模
1949 千名超
設備投資 どこで作っていたか?

1830年の創業地は坐摩神社前の小規模な間口の借店、1877年の改称前後に心斎橋筋へ店を構え直し、1919年の法人化以降は心斎橋本店の売場拡張を進めた。1930年に村野藤吾設計の地上8階・地下2階建ての心斎橋新本店を竣工、1933年に神戸店を出店して大阪と神戸の二都体制を築いた。

1830 坐摩前の借店
1877 心斎橋筋に移転
1919 心斎橋本店拡張
1930 心斎橋新本店竣工
1933 神戸店出店
1945.3 大阪大空襲で本店一部焼失
1946.5 心斎橋本店の一部接収
1952.7 心斎橋本店の接収解除

そごう 創業地の主な拠点関西6府県 の地理(大和屋(古手店) → 神戸店)

日本地図 1830年 大和屋(古手店) 大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目(旧坐摩神社門前) 創業地(大坂船場・坐摩神社前の借店) 1919年 株式会社十合呉服店 大阪本店 大阪府大阪市中央区心斎橋筋2丁目 法人化時の本店所在地 1930年 心斎橋本店(新本店) 大阪府大阪市中央区心斎橋筋2丁目 村野藤吾設計の地上8階・地下2階建て新本店 1933年 神戸店 兵庫県神戸市中央区三宮町 阪神間進出の起点となった2号店

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1830年(天保元年) なぜ初代伊兵衛は1830年に坐摩神社前で古手店を開いたのか?

大坂船場の坐摩神社前は古手商の集散地で、振売や仲買が集まる古着流通の中心だった。新品呉服を扱う三井越後屋系の呉服店が支配した本町・心斎橋筋の表通りに対し、坐摩前は奉公人や町人の日常着が回る場として商売を始める間口が低かった。

初代十合伊兵衛は近江出身の商人として大坂に出て、1830年(天保元年)に坐摩神社の門前で「大和屋」の屋号を掲げて古手商を始めた。坐摩神社は摂津国一宮として船場の商人町の鎮守であり、神社周辺は古手・古道具を売買する小店が集まる場として知られていた。

新品呉服は三井越後屋(後の三越)をはじめとする上方・江戸の老舗が支配する高付加価値領域で、新規参入の余地は乏しかった。これに対し古手は奉公人や町人の日常着として安定した需要があり、仕入れも振売や仲買から少額で入る流通だった。初代伊兵衛は古手という参入障壁の低い領域から信用と資金を積み上げる経路を選び、後に4代を継ぐ商家の祖業となった。

1877年(明治10年) なぜ1877年に4代目伊兵衛は古手から新品呉服へ転じたのか?

明治維新で武士階級が解体し、洋装の浸透と都市人口の再編で古手流通の規模的な天井が見えた。同時に近代法制下で屋号商売が固有名で営業しやすくなり、新品呉服を扱う「十合呉服店」へ改称して上方呉服商の系譜に合流した。

4代目十合伊兵衛は1877年(明治10年)に屋号を「大和屋」から「十合呉服店」に改め、扱い商品も古手から新品呉服へ転じた。維新後の身分制度解体と俸禄制度の廃止で武家相手の古着流通は縮小し、開港地・神戸を経由した洋装品の流入で和装古着市場は構造的に縮みつつあった。

新品呉服への業態転換は、初代以来50年近く積み上げた坐摩前の商圏と仲買網を、より単価の高い領域に振り向ける判断だった。同時期に大坂では高麗橋の三井大坂呉服店や本町筋の岩田呉服店ら老舗が新品呉服で市場を分け合っていたが、十合は心斎橋筋の南寄りに店を構え直し、後に心斎橋本店として続く立地と顧客層を固めていった。

1919年(大正8年) なぜ1919年に株式会社十合呉服店として法人化したのか?

第一次世界大戦の好況下で呉服店各社が百貨店業態への転換を進め、三越・白木屋・松屋・大丸が相次いで株式会社化していた。十合も心斎橋本店の売場拡張と洋品・雑貨部門の新設に資本を投じるため、個人商店から法人組織へ移行した。

1919年(大正8年)、十合呉服店は個人商店から株式会社組織へ改組し、株式会社十合呉服店となった。1904年(明治37年)の三越呉服店「デパートメントストア宣言」以降、上方でも大丸(1907年法人化)・高島屋(1909年法人化)が相次いで株式会社へ移行し、呉服店から百貨店への業態転換が業界全体の課題となっていた。

法人化と同時に十合は洋品・雑貨・家庭用品の取り扱いを始め、心斎橋本店の売場拡張に着手した。個人経営では難しかった建築投資と多部門展開を、株式発行と銀行借入で賄う体制を整えた。法人化は呉服専門店から百貨店へ移るための制度的前提であり、続く1930年の心斎橋本店新築を可能にした基盤となった。

1933〜1935年 なぜ1935年に十合家は株式を売却し創業家が経営から退いたのか?

1933年の神戸店開業と前後する大阪心斎橋本店の新築拡張で建築費と土地取得費が嵩み、借入と増資に依存した資金調達が行き詰まった。財務再建の過程で十合家は保有株式を売却し、経営権は板谷家へ移った。

1930年(昭和5年)、十合は心斎橋筋2丁目に鉄骨鉄筋コンクリート造の地上8階・地下2階建ての新本店を竣工させた。設計は村野藤吾、建坪と売場面積で当時東洋一を称する百貨店建築として、心斎橋筋のランドマークとなった。続く1933年(昭和8年)には神戸・三宮に神戸店を出店し、上方百貨店として大阪と神戸の二都に基盤を広げた。

しかし大規模建築と新店投資が重なり、昭和恐慌期の売上低迷とも相まって財務は逼迫した。1935年(昭和10年)、十合家は保有株式の大半を売却し、創業家は経営の第一線から退いた。経営権は資本提供者の板谷家へ移り、以後そごうは創業家の意思決定回路を持たない外部資本主導の体制で運営される会社となった。

1940〜1949年 なぜ1940年に「株式会社そごう」へ改称し1949年に上場できたのか?

1937年の日中戦争以降、商工省の繊維配給統制で「呉服店」名義の営業実態が形骸化し、洋品・食料品を含む総合小売へ商号を合わせる必要があった。1949年5月の証券取引所再開に合わせ、戦災で接収・焼失を免れた心斎橋本店を基盤に上場した。

1940年(昭和15年)、十合呉服店は商号を「株式会社そごう」へ改めた。日中戦争下で繊維配給統制が強まり、呉服専業の看板で営業を続けることが実態に合わなくなったためで、同時期に三越・大丸・高島屋も社名から「呉服店」を外している。戦中は心斎橋本店も商品供給の縮小と空襲被害に直面し、1945年3月の大阪大空襲で店舗の一部が焼失した。

戦後は1946年5月に進駐軍による心斎橋本店の一部接収を受け、1952年7月の接収解除まで売場制約が続いた。それでも1949年5月の東京・大阪両証券取引所の再開に合わせ、そごうは大阪証券取引所に株式を上場した。戦前の心斎橋本店という土地資産を担保に再建資金を集め、創業119年目で公開企業として戦後復興に踏み出した。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

株式会社そごう

創業年と創業地・初代伊兵衛による古手商開業の記録

「1830年(天保元年)、初代十合伊兵衛、大坂坐摩神社前にて古手商「大和屋」を創業す」
株式会社そごう

4代目伊兵衛による屋号改称と古手から新品呉服への業態転換

「1877年(明治10年)、屋号を「十合呉服店」と改め、新品呉服の販売を始む」
株式会社そごう

個人商店から株式会社組織への改組と百貨店業態への転換

「1919年(大正8年)、株式会社十合呉服店を設立、洋品・雑貨・家庭用品の取扱を開始す」
株式会社そごう

村野藤吾設計の心斎橋新本店竣工と百貨店建築としての規模

「1930年(昭和5年)、大阪心斎橋筋に新本店を竣工、地上8階・地下2階建、当時東洋一を称せらる」
株式会社そごう

戦時下の繊維配給統制を背景にした「呉服店」名義からの転換

「1940年(昭和15年)、商号を株式会社そごうと改称す」
株式会社そごう

戦後の証券取引所再開に合わせた上場、創業119年目で公開企業へ

「1949年(昭和24年)5月、大阪証券取引所に株式を上場す」

参考文献

  • 有価証券報告書(株式会社そごう)
  • 社史記述
  • 大阪証券取引所上場記録
  • 有価証券報告書 沿革欄