1831年 髙島屋(古着・木綿商)を創業
越前敦賀出身の初代飯田新七が、義父・高島屋飯田儀兵衛から屋号を譲り受け、1831年1月に京都下京区烏丸松原で古着・木綿商として独立。1855年前後に二代目が呉服商へ転換、1930年12月の大阪南海店進出で三都体制を整え、1933年3月に大阪・東京両証券取引所へ上場した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 初代飯田新七は1803年に越前国敦賀で生まれ、京都の米穀商・高島屋飯田儀兵衛の養子となり、義父の屋号「高島屋」を引き継いで1831年1月に京都下京区烏丸松原で古着・木綿商として独立した。屋号は儀兵衛の出身地である近江国高島郡に由来し、近江・京間の商圏で築かれた信用を看板として借りる形で開業した。
- 二代目飯田新七は初代の娘婿として家督を継ぎ、1855年前後に店の主力を古着・木綿から呉服へ切り替えた。明治期に入ると洋反物の取り扱いと輸出向け絹織物・美術染織にも事業を広げ、京の小規模な古手商から始まった商いを輸出を含む呉服商へ拡張し、後年の百貨店化の素地を整えた。
- 1909年に髙島屋飯田合名会社、1919年8月に株式会社髙島屋呉服店として法人化を二段階で完了し、京都・大阪・東京の三都に店舗を構える近代企業へ転じた。1930年12月に商号を「株式会社髙島屋」へ改め大阪南海店を出店、1933年3月に東京店を日本橋へ移転して大阪・東京両証券取引所へ上場、1944年3月に本店を京都市から大阪市南区難波へ移し、1949年5月の両証取引所再開時にも上場銘柄として復帰、創業の烏丸店は1952年に閉鎖された。
初代飯田新七は義父の屋号と商圏を引き継ぐ家業として開業し、二代目が古着・木綿から呉服商へ業種を切り替え、明治期に洋反物と輸出を加えた。1928年の業界紙が「実質本位」と評する大衆志向の路線を採り、富裕層特化の三越と一線を画した。
1909年に髙島屋飯田合名会社で社員の無限責任を負う一族出資組織に整理し、1919年8月に株式会社髙島屋呉服店として株式譲渡可能な近代企業に改組、1933年3月に大阪証券取引所へ上場し東京証券取引所にも上場、家業の自己資金から公開資本へ転じた。
創業時の古着・木綿から1855年前後に呉服へ転換、明治期に洋反物と輸出向け絹織物・美術染織を加え、1919年の株式会社化以降は呉服店から雑貨・食品・洋装を扱う近代百貨店業態へ拡大、1930年代には大阪・東京で大丸・三越と並ぶ大玄関を構える店づくりへ移行した。
創業期は京都市中の中間層と古手・木綿の流通に依拠、1855年以降は西陣周辺の呉服需要と輸出向け取引先を取り込み、1930年代の難波・日本橋への大型店舗展開で大阪・東京の大衆百貨店利用客に主力顧客が移った。京城日報は「プロレタリアの百貨店」と評している。
創業期の烏丸松原店は一族と奉公人の少人数体制から始まり、1909年の合名会社化、1919年の株式会社化を経て京都・大阪・東京の三都市に店舗を持つ企業規模へ拡大、1933年の両証取上場時には三都市の店舗運営にあたる従業員を擁する近代百貨店企業へと組織を膨らませた。
創業地は京都下京区烏丸松原の古手・木綿商の店構え、1909年に大阪南区心斎橋筋、1919年に東京京橋区南伝馬町に店舗を構え、1930年12月に大阪南海ビル内の南海店、1933年3月に東京日本橋への東京店移転と、御堂筋整備と地下鉄延伸という都市インフラに合わせた拠点配置を進めた。
高島屋 創業地の主な拠点関西6府県 の地理(髙島屋本店(烏丸店) → 大阪南海店)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1831年1月 なぜ初代飯田新七は「高島屋」という他人の屋号を引き継いだのか? | 養父にあたる米穀商・高島屋飯田儀兵衛から屋号を譲り受け、京都烏丸松原に古着・木綿商として独立開業したため。屋号「高島屋」は儀兵衛の出身地である近江国高島郡に由来し、新七は儀兵衛の縁により屋号と商圏を継承する形で店を起こした。 初代飯田新七は1803年に越前国敦賀の生まれで、京都へ出て米穀商・高島屋飯田儀兵衛の養子に入った。儀兵衛は近江国高島郡の出身で、京都市中で米穀を商いつつ「高島屋」の屋号を掲げていた。 1831年1月、新七は儀兵衛の援助を受けて京都下京区烏丸松原に独立し、古着と木綿を扱う店を構えた。義父の屋号「高島屋」をそのまま掲げたことで、近江・京間の商圏で築かれた信用を引き継ぐ形となった。京の中心部に位置する烏丸松原は、近隣に呉服・古手の同業者が集積する一帯で、新七の店もこの古手・木綿の流通網のなかに組み込まれた。屋号の地名由来は後年まで「近江国高島郡から取った」(高島屋社史)と社内で語り継がれ、現在の社名にも残っている。 |
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| 1855年前後 なぜ二代目飯田新七は1855年に呉服商へ転換したのか? | 古着・木綿商として築いた京都市中の販路を足場に、利幅の大きい呉服へ業種を広げる必要が出ていたため。二代目新七は初代の娘婿として家督を継ぎ、京の呉服問屋筋との関係を作り直しつつ、洋反物を含む新しい商材を扱う方向に舵を切った。 初代新七の没後、娘婿が二代目飯田新七を襲名して家業を継いだ。当時の京都は西陣を中心とする呉服生産地を背後に控え、烏丸松原一帯の小売は古手・木綿から呉服へ品目を広げる余地が大きかった。二代目新七は1855年前後に店の主力を古着・木綿から呉服へ切り替え、本店を呉服商として再編した。 明治期に入ると洋反物の輸入が始まり、二代目は国内呉服に加えて洋反物の取り扱いにも着手し、輸出向けの絹織物や美術染織の発送も手がけた。京の小規模な古手商から始まった商いを、輸出を含む呉服商へ広げる過程は、後年の三越・大丸と並ぶ百貨店化の素地となった。創業期の古着・木綿商から呉服商への業種転換は、家業の連続性を保ちつつ商材と販路を組み替えていく後の経営手法の原型でもあった。 |
| 1909〜1919年 なぜ1909年と1919年に二段階で法人化したのか? | 個人商店として束ねていた京都・大阪の店舗を、まず1909年に合名会社で一括管理する組織へ移し、第一次世界大戦期の事業拡大を受けて1919年に株式会社へ改組し、株式の譲渡性を備えた近代企業の枠組みを整える必要が生じたため。 1909年、髙島屋飯田合名会社が設立され、京都本店を中心とする一族経営の店舗群が合名会社の傘の下にまとめられた。同年には大阪南区心斎橋筋にも店舗が置かれ、京都・大阪の二都に店を構える体制が動き始めた。合名会社は社員の無限責任を負う仕組みで、一族の出資と経営責任が一体だった当時の家業の形を残したまま、法人格を備えた組織への一歩を踏み出した。 第一次世界大戦期の繊維需要拡大と店舗網拡大を背景に、1919年8月20日に株式会社髙島屋呉服店へ改組し、株式の譲渡を通じて出資者を広げられる近代株式会社の枠組みを取り入れた。京都下京区烏丸通の本店に加え、大阪南区心斎橋筋と東京京橋区南伝馬町にも店舗を構え、京都・大阪・東京の三都市で同時に店舗を運営する体制が法人として確立した。家業の呉服商から近代企業への組織転換は、創業から約90年を要した。 |
| 1928〜1930年 なぜ1930年12月に大阪南海店を構えたのか? | 大阪市の御堂筋拡幅と地下鉄第一期工事の進展を見越し、難波の南海ビル内に大型店舗を置けば心斎橋・難波間の新ショッピング街の中核を取れると判断したため。御堂筋沿道に大丸・十合と並ぶ大玄関を構える出店戦略をとった。 1923年10月の大阪朝日新聞は「南北幹線の西横堀線の高架式を廃し、これを御堂筋線に持って来て地下線に変更する」(大阪朝日新聞 1923/10/6)と報じ、御堂筋拡幅と地下鉄計画が動き出していた。1924年3月の同紙は梅田・難波の大幹線買収交渉の開始を伝え、難波を南端とする地下鉄延伸が現実味を帯びていった。 1930年12月、髙島屋は商号を「株式会社髙島屋」に改めると同時に、大阪南区難波の南海ビル内へ南海店を開設した。地下鉄第一期工事の梅田・難波間は1933年5月に開通し、心斎橋・難波間には「高島屋、大丸、十合などが大玄関を拡げて居り」(大阪時事新報 1936/7/17)と評される御堂筋沿道の商業街が形成された。当時の業界紙は「ただ心配されているのはこうした商策以外新興の高島屋が南海へのあの高い店賃をどうして稼ぎ出すだろうかという問題だ」(中外商業新報 1930/10/2)と店賃負担の重さを指摘しており、難波出店は都市インフラの整備に賭けた資本集約型の決断だった。 |
| 1933年3月 なぜ1933年に大阪・東京両証券取引所へ同時上場したのか? | 南海店出店と同年3月の東京店日本橋移転で必要となる増資・設備投資の規模が、個人および合名出資の枠を超えていたため。三都市同時運営の近代百貨店企業として、両都市の資本市場から公開資金を調達する道を選んだ。 1928年12月の業界紙は「大大阪の百貨店は歳が越えていよいよ凄じい戦いを開こうとしている」(大阪時事新報 1928/12/16)と記し、三越を「斯界の覇者」と並置しつつ大阪での百貨店競争の激化を伝えた。京城日報は同年6月、「われ等の高島屋であり、実質本位の松坂屋」(京城日報 1928/6/7)と書き、富裕層特化の三越に対し高島屋を大衆志向の実質本位店として位置づけた。 1933年3月、髙島屋は東京店を京橋区南伝馬町から日本橋区日本橋へ移転し、同年3月に大阪証券取引所へ株式を上場、続いて東京証券取引所にも上場した。家業として始まった呉服商が、京都・大阪・東京の三都を結ぶ株式公開企業として近代百貨店業態を完成させた節目で、創業から102年が経過していた。1944年3月には本店を京都市から大阪市南区難波へ移し、関西を経営の主軸に据える形で戦時期を迎えた。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1928年6月の業界記事で、富裕層特化の三越に対し高島屋・松坂屋を実質本位の大衆向け百貨店として並置して論じた箇所
「われ等の高島屋であり、実質本位の松坂屋」
1920年代後半に百貨店全体が富裕層向けから大衆向けへ転じる流れのなかで高島屋を位置づけた当時の業界観
「かつて今日は帝劇明日は三越といった時代は去って、われ等の高島屋であり、実質本位の松坂屋と変化しつつある、即ち百貨店の民衆化で現在ではブルジョアの百貨店というよりもプロレタリアのの百貨店と化して来た」
1930年12月の大阪南海店開設を前に、業界紙が南海ビル店賃負担の重さを懸念材料として伝えた箇所
「ただ心配されているのはこうした商策以外新興の高島屋が南海へのあの高い店賃をどうして稼ぎ出すだろうかという問題だ」
1929年を控え、大阪での百貨店競争激化を伝えた業界紙の年末記事で、三越を「覇者」と位置づけつつ大阪市場の戦線拡大を描いた
「大大阪の百貨店は歳が越えていよいよ凄じい戦いを開こうとしている、三越王国は依然として斯界の覇者である」
御堂筋整備後、心斎橋・難波間に高島屋・大丸・十合が大玄関を構える御堂筋沿道の商業街形成を業界紙が伝えた箇所
「心斎橋難波間に高島屋、大丸、十合などが大玄関を拡げて居り、南地演舞場も御堂筋に出る模様であり」
御堂筋整備と地下鉄計画の方針転換を伝えた1923年の報道で、後年の高島屋難波出店の前提となった都市インフラ計画の起点
「南北幹線の西横堀線の高架式を廃し、これを御堂筋線に持って来て地下線に変更する」
参考文献
- 高島屋社史
- 有価証券報告書
- 京城日報 1928/6/7
- 大阪朝日新聞 1923/10/6
- 大阪朝日新聞 1924/3/13
- 大阪時事新報 1928/12/16
- 中外商業新報 1930/10/2
- 大阪朝日新聞 1933/4/14
- 大阪時事新報 1936/7/17