重要な意思決定
1957

東京店を開業

背景

心斎橋本店の接収解除遅延が東京進出の出遅れを構造的に規定した経緯

百貨店業界では、終戦後の復興需要と都市人口の増加を背景に、1950年代を通じて店舗新設が相次いだ。東京圏では有楽町・銀座・日本橋を中心に商業集積が進み、各社は立地確保と大型化を競っていた。一方、そごうは心斎橋本店の接収解除が遅れ、既存店舗の立て直しに経営資源を割いていたため、首都圏での出店競争において後手に回っていた。

関西圏に店舗を集中させる構造は安定的な地盤を形成していたが、人口と消費が拡大する東京市場への拠点を欠くことは、成長余地の制約として認識され始めていた。東京進出は単なる店舗増設ではなく、企業規模とブランド認知を全国水準に引き上げるための経営課題として位置付けられていた。

決断

読売会館への賃貸出店で土地取得を回避しつつ有楽町に進出した判断

1950年代半ば、読売新聞は有楽町駅前の保有地を活用し、商業ビル「読売会館」の開発を進めていた。同地は映画館や劇場が集積する興行街に近く、銀座にも接続する立地であった。そごうはこの計画に着目し、土地取得を伴わない賃貸方式での出店を軸に、読売側との交渉を本格化させた。

東京店の出店責任者となった有富光門副社長は、読売新聞経営陣との折衝を重ね、読売会館の主要テナントとして入居する方針を固めた。土地取得負担は回避できたが、店舗内装や設備投資として約30億円を投じ、加えて相応の賃料を支払う契約で合意した。

結果

3期連続赤字に陥り大和銀行主導で東京進出の推進者が更迭された帰結

1957年の開業後、東京店は話題を集めたが、日本経済の一時的な景気停滞と重なり、当初計画に見合う売上水準を確保できなかった。高水準の賃料負担に加え、開業投資の減価償却費が重なり、損益構造は急速に圧迫された。東京進出は成長機会であると同時に、固定費比率を押し上げる要因となった。

1958年2月期以降、そごうは3期連続の赤字に陥った。大株主である大和銀行が主導する形で経営体制の見直しが行われ、東京進出を推進した有富副社長は退任した。後任として水島氏が副社長に就任し、経営の主導権は再編されることとなった。