重要な意思決定
20055月

リチウムイオン電池メーカーATLを買収

背景

上場来初の赤字からの再建と次の成長エンジンの模索

2000年末のITバブル崩壊は、TDKに深刻な打撃を与えた。携帯電話やインフラなど通信市場が急激に縮小し、好調だったHDD用ヘッド事業も落ち込んだ。2002年3月期、TDKは上場来初の営業赤字437億円に転落し、構造改革費用360億円を計上して853名の人員削減を実施した。第6代社長の澤部肇は「経営者として恥ずかしいことだけど、赤字にしなかったよりもしてよかったと思う」と述べ、2段階の構造改革に着手した。第1段階は損益分岐点の引き下げ、第2段階はチャレンジ精神の再生であった。

澤部が危機感を持っていたのは、業績悪化そのものだけではなく、社内に蔓延していた安全志向と挑戦意欲の後退であった。「昔はそこに肉を1枚置くと、皆、がばっと取りに行った。でも今は、誰かがやるかなと様子を見ている」と組織の変質を嘆き、「スピードがアナログ時代のまま」だと繰り返し指摘した。営業利益率2桁への回復を経営目標として全社に徹底し、「利益にはお客の満足度と自分たちの競争力がそのまま表れている。それが企業の存在価値です」と社員に説き続けた。

構造改革の第1段階では固定費の削減と不採算事業の整理が進み、2003年3月期には黒字化を果たした。しかし澤部はこれを「とりあえず出血が止まって、体調を整えただけ」と評し、次の成長エンジンを見つけることが最大の課題と認識していた。HDD用ヘッドは依然として稼ぎ頭であったが、技術の世代交代が速く、常にライバルとの投資競争にさらされる事業であった。テープ事業は縮小の一途を辿っていた。TDKには、ヘッドとテープに代わる新たな事業の柱が必要であった。

決断

約87億円でATLを買収し、電池事業に参入

2005年5月、TDKは香港のリチウムポリマー電池メーカーATL(Amperex Technology Limited)を買収した。買収額は約100億円、現金控除後では約86.6億円であった。ATLは携帯機器向けの小型リチウムイオン電池を製造する企業であり、中国に3,000人規模の従業員を抱えていた。TDKの主力事業である磁性材料やHDD用ヘッドとは一見すると技術的連続性が薄いが、電池の正極材料にはセラミック焼成技術との共通性があり、TDKの材料技術を活かせる領域であった。

ATL買収の決断には、TDKのM&A史における学習が反映されている。1997年にSilicon Systemsを売却してMRヘッドに集中投資した経験は、「事業の柱を入れ替えるタイミングでは、思い切った資源配分が必要」という認識を組織に残していた。ATLの買収額は約87億円と、TDKの規模からすれば比較的小さい投資であったが、買収後にATLの事業が拡大すれば追加投資が必要になることは織り込み済みであった。重要なのは、電池という新たな市場に橋頭堡を築くことであり、初期投資の規模ではなかった。

同年10月にはLambda Power Groupの買収も実施し、TDKは「エナジー」領域への本格的な参入を2005年に一気に推し進めた。Lambdaはテレコム・データ通信向けの電源を主力とするメーカーであり、ATLの電池事業と合わせて電力の貯蔵と変換の両面で事業基盤を構築する狙いがあった。従来の磁性材料・記録デバイスを軸とする事業構成に電池と電源という新たなセグメントが加わったことで、TDKの事業ポートフォリオは根本的に変わり始めた。

結果

87億円の投資が売上1兆円超の事業に成長

ATL買収後、2007年に発売されたiPhoneを皮切りにスマートフォン市場が爆発的に拡大し、ATLの成長を牽引した。ATLはスマートフォン向けリチウムイオン電池で世界シェア5〜6割を獲得し、Apple、Samsung、Huaweiなど主要メーカーに電池を供給する世界最大級の小型電池メーカーに成長した。2025年3月期にはエナジー応用製品セグメントの売上高が1兆1,765億円に達し、TDK全体の売上高2兆2,048億円の53.4%を占めるに至った。

約87億円の買収額に対して売上高が約135倍に拡大したこの投資は、TDK史上最大のリターンをもたらした。ATLが生み出す巨額のキャッシュフローは、2008年のEPCOS買収(約1,700億円)や2017年のInvenSense買収(約1,427億円)の原資となり、TDKのM&A戦略を支える財務基盤となった。TDKの連結売上高は2005年の約7,000億円から2025年の2兆2,048億円へと3倍以上に拡大し、営業利益率は2025年3月期に10.2%を回復した。

しかし、ATLへの依存度の高さは構造的なリスクでもある。エナジー応用製品が売上の過半を占める現在の事業構成は、かつて磁気テープが売上の49.7%を占めた1982年の構造と類似しており、スマートフォン市場の成熟化やEV向け電池市場の競争激化といった外部環境の変化に対する脆弱性を内包する。TDKは過去にテープからヘッドへ、ヘッドから電池へと主力事業を入れ替えてきたが、ATLに続く次の柱をどの領域に構築するかが、TDKの次の経営課題となっている。