1935年 東京電気化学工業株式会社を創業
秋田出身の連続起業家・齋藤憲三が、東京工業大学発・世界初の酸化物磁性体フェライトの工業化に共鳴、1935年12月に東京市芝区で資本金2万円の東京電気化学工業を設立。鐘淵紡績・津田信吾の私財10万円を受け、1937年7月に蒲田工場でフェライトコアの世界初量産に到達した。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 1930年に東京工業大学の加藤与五郎・武井武が世界初の酸化物磁性体フェライトを発明し、1932年に特許を取得したものの、大学の研究室で生まれた基礎研究の成果にとどまり、用途がラジオや無線通信機のコイル材料に限られて市場規模が不透明だったため、発明から5年が経過しても工業化の担い手は現れなかった。
- 秋田県由利郡出身でアンゴラ兎の養毛業など連続起業の失敗を重ねた齋藤憲三が、1935年夏に加藤博士を訪問してフェライトの実物を目にし、「独創の工業」という理念に共鳴して工業化を自らの使命と定め、1935年12月7日に東京市芝区で資本金2万円の東京電気化学工業株式会社を設立した。
- 設備投資10万円の資金不足を、アンゴラ兎事業で接点を得ていた鐘淵紡績の津田信吾社長が私財10万円を投じて埋め、1936年10月に資本金12万円へ増資、1937年7月に東京・蒲田工場でフェライトコアの製品化に世界で初めて到達、1940年7月に秋田県由利郡の平沢工場も稼働させた。
- フェライトコアは1940年に松下電器のミューチューニング方式ラジオで初採用となり、戦時中の軍用無線通信需要を背景に終戦までにのべ500万個を出荷、戦後はGHQの1946年スーパーヘテロダイン令により中間周波トランスの中核部品として不可欠となり、1948年に山崎貞一が第2代社長として「事実上第二の出発」を率いてラジオ部品メーカーとして急成長を遂げた。
- 1951年4月の目黒研究所開設、1952年10月の清水工場での磁気録音テープ生産開始、1953年3月の秋田・琴浦工場への磁器コンデンサ設備集約と、創業から十数年でフェライト一品からセラミックコンデンサ・磁気テープへと素材技術の横展開を進め、後年の事業ポートフォリオ入替の発想がこの時期に定着した。
東京工業大学発のフェライトを工業化するため設立、加藤博士の「独創の工業」理念と齋藤憲三の「素材を先に握り用途を後から探す」逆順の起業形態を組織の内側に置き、戦後は山崎貞一が「事実上第二の出発」と位置づけてラジオ部品メーカーへの転身を率いた。
1935年12月に資本金2万円で発足、設備投資10万円の資金不足を1936年10月に鐘淵紡績・津田信吾社長の私財10万円出資で資本金12万円に増資、戦時下のフェライトコア需要拡大に応じて段階的に増資を重ね、戦後の事業多角化期に向けた財務基盤を整えた。
フェライトコアを主力に1937年蒲田工場で世界初の製品化を達成、用途開拓のためコバルトフェライトを内蔵した自転車用発電ランプも並行生産、戦後はラジオ用中間周波トランスの中核部品として量産を拡大し、1951年から磁気録音テープ・1953年からセラミックコンデンサへ素材技術を横展開した。
創業初期は売り先が定まらず自社応用製品で需要を作る局面が続いたが、1940年に松下電器がフェライトコアをミューチューニング方式ラジオで初採用、戦時中は軍用無線通信向けに販路が拡大、戦後はGHQスーパーヘテロダイン令を受けたラジオメーカー各社が中間周波トランスの部品として量産発注を始めた。
創業時は齋藤憲三を含む数名規模から出発し、1937年蒲田工場稼働後にフェライトコア量産と発電ランプ生産で工場要員を増やし、戦時下の軍需対応で1940年平沢工場稼働期には数百名規模へ、戦後の急成長期である1950年代前半には1,000名級の体制へ拡大した。
創業地は東京市芝区、1937年7月に東京・蒲田工場、1940年7月に秋田県由利郡平沢工場、1951年4月に目黒研究所、1952年10月に清水工場(磁気テープ)、1953年3月に秋田・琴浦工場と、東京と秋田の二極で素材生産から研究までを並列に立ち上げる拠点配置の原型を初期15年で築いた。
TDK 創業地の主な拠点全国 の地理(東京電気化学工業株式会社 創業地 → 秋田・琴浦工場)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1930〜1935年 なぜ大学発の磁性体発明から工業化までに5年もかかったのか? | 加藤与五郎・武井武が東京工業大学で発明したフェライトは用途がラジオや無線通信機のコイル材料に限られ、市場規模が不透明で大手電機メーカーが参入する動機が乏しかった。1932年に特許を取得しても担い手が現れず、発明から5年が経過した。 1930年、東京工業大学電気化学科の加藤与五郎博士と武井武博士が、酸化鉄に亜鉛・マンガン・銅などの金属粉末を加えて1,000〜1,200度で焼成する手法を確立し、世界初の酸化物磁性体フェライトを発明した。1932年に特許を取得したものの、大学の研究室で生まれた基礎研究の成果にとどまり、量産技術も確立されていなかった。 加藤博士には「独創性のある工業こそが真の工業だ。今ある工業の大半は欧米のイミテーションだから、日本の工業ではない」という信念があり、日本人の頭脳から生まれたフェライトを日本発の独自技術として事業化することが悲願だった。しかしフェライトの用途はラジオや無線通信機のコイル材料に限られ、市場規模が不透明であり、大手電機メーカーがリスクを取って参入する動機は乏しく、発明から5年が経過しても工業化の担い手は現れていなかった。 |
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| 1935年 なぜ齋藤憲三は資本金2万円でフェライトの事業化に踏み切れたのか? | 秋田県の寒村に生まれ故郷の振興を志した齋藤は、アンゴラ兎の養毛業など連続して失敗を重ねた後年に自らを「2勝98敗」と振り返る連続起業家で、加藤博士の「独創の工業」という理念に共鳴して使命と定めた。 齋藤憲三は1898年に秋田県由利郡に生まれ、早稲田大学を卒業後、故郷の貧困を救うために新たな産業を興すことを生涯の志とした。アンゴラ兎の養毛業など数々の事業に挑戦しては失敗を重ね、後年に自らの人生を「2勝98敗」と振り返る連続起業家であった。アンゴラ兎の事業で鐘淵紡績の津田信吾社長と接点を得ていたことが、後の資金調達の伏線となった。 1935年夏、齋藤は人の紹介で東京工業大学の加藤与五郎博士を訪問してフェライトの実物を目にした。加藤博士の「独創の工業」という理念に衝撃を受けた齋藤は、フェライトの工業化を自らの使命と定め、1935年12月7日に東京市芝区で資本金2万円の東京電気化学工業株式会社を設立した。社名は東京工業大学電気化学科の英語頭文字(Tokyo Denki Kagaku)に由来し、加藤・武井両博士からフェライトに関する特許実施権を譲り受けたうえでの船出だった。 |
| 1936年 なぜ鐘淵紡績の社長が私財10万円をフェライト事業に投じたのか? | 会社の資金を本業外に投じることはできなかったが、津田信吾は日本発の独自技術による事業興しに共鳴し、齋藤との旧縁とフェライトという素材の将来性への賭けとして個人資産から10万円を提供した。 フェライトの製造設備には約10万円の投資が必要であり、資本金2万円では到底まかなえなかった。齋藤はアンゴラ兎の事業で接点を得ていた鐘淵紡績の津田信吾社長に資金援助を求めた。津田は会社の資金を本業外に投じることはできなかったが、国産技術により事業を興す齋藤の構想に共鳴し、私財10万円を提供する形で出資に応じた。 1936年10月にこの払込みを受けて、東京電気化学工業の資本金は12万円に拡大した。会社の資金ではなく個人の財産を投じたという事実は、当時のフェライト事業が合理的な投資判断の範囲外にあったことを示している。鐘淵紡績との縁はその後も続き、創業時に鐘淵紡績のサラリーマンであった素野福次郎は1949年に同社へ転じ、1969年には第3代社長として磁気テープでの世界一達成を指揮することになる。創業期にカネとヒトの両面で鐘淵紡績との結節が機能した。 |
| 1937〜1940年代 なぜ蒲田工場のフェライトコアと並行して自転車の発電ランプを手がけたのか? | フェライトの市場が限られていたためキャッシュを確保する必要があり、コバルトフェライトの磁石を発電機構に転用した発電ランプを並行生産してリスク分散を図った。 1937年7月、東京・蒲田に工場を新設しフェライトコアの製品化に世界で初めて到達した。しかし初代社長を務めた齋藤は「この偉大なる発明品もさっぱり売れない。電気通信業界の技術者がなかなか相手にしてくれない」(経済往来 1963/5、山崎貞一回顧)という状況に直面し、自社で応用製品を手がける必要に迫られた。 蒲田工場ではコバルトフェライトの磁石を内蔵した自転車用発電ランプを並行生産し、フェライトコア需要が立ち上がるまでのキャッシュを確保する策をとった。フェライトコアが応用面で社会に認められた起点は1940年で、「松下電器によって初めて採用された」(経済往来 1963/5)とミューチューニング方式のラジオ部品として量産販売が始まった。同年7月には齋藤の故郷に近い秋田県由利郡に平沢工場を新設し、戦時下の軍用無線通信需要に支えられて、終戦までにフェライトコアをのべ500万個ほど出荷する規模に達した。 |
| 1946〜1953年 なぜ戦後の混乱期にフェライトコアが急成長の柱となれたのか? | GHQが1946年に交付したスーパーヘテロダイン令で雑音の少ないラジオのみの生産が認められ、中間周波トランスの中核部品としてフェライトコアが不可欠となったため、ラジオ部品メーカーとして戦後の急成長を遂げた。 戦後の混乱期にフェライトコアの需要は一度ゼロまで落ち込み、第2代社長の山崎貞一は「細々と会社を維持していくにも、何か別のものをするしかなく、農地の開墾や製塩などを行った」(経済往来 1963/5)と回顧する状況に置かれた。1948年1月に山崎が齋藤からバトンを受けて社長に就任した時期が、同社の「事実上第二の出発」(経済往来 1963/5)に当たった。 転機は1946年のGHQスーパーヘテロダイン令で、雑音の少ないスーパーヘテロダイン方式のラジオ生産のみが認められ、中間周波トランスの中核部品としてフェライトコアが不可欠となった。同社はラジオ部品メーカーとして急成長を遂げ、1951年4月に目黒研究所を開設して基礎研究体制を整え、1952年10月に東京・清水工場を開設して磁気録音テープの生産に着手、1953年3月には秋田・琴浦工場へ磁器コンデンサの全生産設備を移転した。フェライトという素材技術から、セラミックコンデンサと磁気テープへ横展開する経営の原型がここで定まった。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
1935年に齋藤憲三がフェライトの工業化を決意した契機となった、東京工業大学加藤博士の事業観
「独創性のある工業こそが真の工業だ。今ある工業の大半は欧米のイミテーションだから、日本の工業ではない」
フェライト発明者である加藤博士が、磁性材料の応用範囲を電波利用全般へと展望していた発言
「将来、電波の時代が来るが、電波というものは一切、フェライトによって処理されていく」
鐘淵紡績から後年TDKへ転じ第3代社長となった素野福次郎による、創業の経緯と動機の総括
「TDKは昭和10年12月、東京工大の加藤与三郎、武井武両先生の発明になる磁性材料、フェライトの工業化のために創立された。外国の真似でなく、日本人の頭脳から出たオリジナルなもので産業を興さねば、という加藤先生の考えに共鳴した創業者、斉藤憲三さんがつくった会社である。」
初代の齋藤体制から第2代社長を引き継いだ山崎による、創業初期の販路未開拓期の回顧
「この偉大なる発明品もさっぱり売れない。電気通信業界の技術者がなかなか相手にしてくれないのである。どうもメーカーの技術者は頭が悪いし、こんなに良いものが判らないのかということで、自分たちの手でフェライトコアーの応用製品を手がけることを考えた。」
創業から5年を経てフェライトコアが量産用途で初採用された節目の回顧
「1940年、フェライトコアーは松下電器によって初めて採用された。ミューチューニングの方式として、ようやく社会に認められ始めたのである。」
終戦直後にフェライト需要が消失し、本業外の事業で会社を維持した時期の回顧
「戦後の混乱期にはフェライトコアーの需要も全く止まってしまった。細々と会社を維持していくにも、何か別のものをするしかなく、農地の開墾や製塩などを行った。」
1948年1月の第2代社長就任を「事実上第二の出発」と位置づけた、戦後再建期の起点に関する述懐
「1947年の中頃からようやく復興の兆候が見え始め、1948年の1月に私は、前社長からバトンを受けて社長に就任したのであった。東京電気化学工業27年あまりの歴史の中にあって、この時期までは、開発と混乱の繰り返しであり、私が社長に就任してからの会社は、事実上第二の出発をしたのだと考えている。」
参考文献
- 経済往来 1963/5(山崎貞一回顧)
- 私の履歴書:経済人24(素野福次郎)
- 有価証券報告書
- TDK公式社史
- 有価証券報告書(沿革)
- 経済往来 1963/5
- 経済時代 1959/11
- 私の履歴書:経済人24