フェライト工業化の決断
大学の発明を工業化する担い手がいなかった
1930年、東京工業大学の加藤与五郎博士と武井武博士は、世界初の酸化物磁性体「フェライト」を発明した。フェライトは高周波領域で優れた磁気特性を示す新素材であり、加藤博士は「将来、電波の時代が来るが、電波というものは一切、フェライトによって処理されていく」と確信していた。1932年には特許を取得したものの、当時のフェライトは大学の研究室で生まれた基礎研究の成果にとどまり、量産技術も確立されておらず、工業製品として事業化する企業は存在しなかった。
加藤博士には「独創性のある工業こそが真の工業だ。今ある工業の大半は欧米のイミテーションだから、日本の工業ではない」という強い信念があった。日本人の頭脳から生まれたフェライトを、日本発の独自技術として事業化することが博士の悲願であった。しかし、フェライトの用途はラジオや無線通信機のコイル材料に限られており、市場規模は不透明であった。大手電機メーカーがリスクを取って参入する動機は乏しく、発明から5年が経過してもなお、工業化の担い手は現れていなかった。
齋藤憲三、資本金2万円でフェライトの事業化を決意
1935年夏、齋藤憲三は縁あって加藤博士を訪問し、フェライトの実物を目にする。齋藤は秋田県の寒村に生まれ、故郷の貧困を救うために新たな産業を興すことを生涯の志としていた。アンゴラ兎の養毛業など数々の事業に挑戦しては失敗を重ね、後年に自らの人生を「2勝98敗」と振り返る人物であった。加藤博士の「独創の工業」という理念に衝撃を受けた齋藤は、フェライトの工業化を自らの使命と定め、1935年12月7日に資本金2万円で東京電気化学工業株式会社を設立した。
しかし、フェライトの製造設備には10万円の投資が必要であり、資本金2万円の新会社では到底賄えなかった。齋藤はアンゴラ兎の養毛事業で知り合った当時日本最大の企業・鐘淵紡績の津田信吾社長に資金援助を求めた。津田は会社の資金を本業外に投じることはできなかったが、日本発の独自技術による事業興しに共鳴し、私財10万円を提供した。1936年10月にこの出資を受けて資本金は12万円に拡大し、TDKはようやくフェライトコアの工業生産に乗り出すことができた。
終戦までに500万個を出荷、戦後はラジオ需要で急成長
1937年、TDKはフェライトコアの製品化に世界で初めて成功し、日本の無線通信機やラジオ向けのコイル部品として採用された。同年に蒲田工場を新設し、1940年には齋藤の故郷に近い秋田県に平沢工場を増設して生産体制の拡大を図った。創業時に市場規模が不透明とされたフェライトであったが、戦時中の軍用無線通信需要に支えられて販路は着実に広がり、終戦までにフェライトコアをのべ500万個出荷した。大学の研究室で生まれた素材が、10年足らずで量産工業製品へと転換された。
戦後、GHQが1946年に交付したスーパーヘテロダイン令は、TDKにとって決定的な追い風となった。雑音の少ないスーパーヘテロダイン方式のラジオのみの生産を認めるこの通達により、中間周波トランスの中核部品としてフェライトコアが不可欠となり、TDKはラジオ部品メーカーとして急成長を遂げた。齋藤憲三の「世の中にまだ存在しない価値を、素材のレベルから創り上げる」という精神は、1967年に社是「創造によって文化、産業に貢献する」として明文化された。