三成社を創業・国産初の段ボール製造
ドイツ製梱包材が先行する市場で段ボールの国産化に着目
1910年、起業を決意した井上貞治郎氏は梱包材の製造機械を改造し、ボール紙にシワをつけた梱包材を「段ボール」と命名して国内市場に売り出した。ボール紙を波状に加工した梱包材自体は、すでにドイツ製の製品が国内で流通しており、電球の包装などに使用されていた。つまり製品としては新規ではなかったが、日本語で「段ボール」と名付けて国産化に踏み切った点に井上貞治郎氏の独自性があった。ドイツからの輸入品に頼るのではなく、自ら製造・販売することで価格面での競争力を確保しようとした。
井上貞治郎氏が段ボール事業に着目した背景には、明治末期から大正期にかけて工業化が進展する日本において、製品の梱包需要が拡大しつつあったことがある。電球・タバコ・瓶類など壊れやすい工業製品の出荷には緩衝材としての包装が不可欠であり、ドイツ製梱包材の流通はその需要の存在を裏付けていた。しかし輸入品は高価であり、国産の段ボールが供給されれば価格面で優位に立てる可能性があった。井上貞治郎氏は「紙で起業する」という意思決定の延長線上で、梱包材としての段ボール製造を事業の中核に据えた。
共同設立の三盛社を発足し赤字を乗り越え量産体制を構築
1910年8月、井上貞治郎氏は共同出資の形態で「三盛社」を設立し、段ボール製造機械を用いて電球やタバコの梱包材の生産を開始した。しかし創業直後から経営は軌道に乗らず、赤字が続いたことで共同設立者が次々と離脱し、最終的には井上貞治郎氏だけが残される事態となった。それでも事業を放棄することなく、島田洋紙店から借り入れた資金でドイツ製の製造機械を輸入し、量産体制の構築に踏み切った。この判断により生産効率が大幅に改善し、段ボール事業はようやく軌道に乗り始めた。
段ボール事業が安定的に成長する転機となったのは、大正時代に勃発した第一次世界大戦による好景気であった。特に東京電気(現・東芝)からの受注が事業基盤を固めた。1914年頃から東京電気はウラジオストック経由で電球の海外輸出を本格化し、その梱包材として段ボールを大量に必要とした。井上貞治郎氏はこの需要を取り込み、電球輸出の拡大に伴い段ボールは輸出産業を支える必需品としての地位を確立した。のちに東京電気が段ボールメーカーへの資本参加を検討する布石ともなった。