中国でオムツの生産開始
中国紙おむつ市場の急拡大と日本製輸出モデルの限界
2000年代後半、中国では所得水準の上昇と衛生意識の高まりにより、紙おむつ市場が急速に拡大していた。花王は2009年から日本製「メリーズ」を中国で販売していたが、輸出品は関税と物流コストの影響で価格が高止まりし、購買層は沿岸部の高所得層に限られていた。市場全体の成長を取り込むには、価格を引き下げて中間所得層へのアクセスを確保する必要があった。
一方、P&Gやユニチャームなど競合メーカーはすでに中国国内に生産拠点を構え、現地生産による価格競争力を武器に中間所得層の開拓を進めていた。輸出モデルでは関税と輸送コストが上乗せされるため、現地生産に踏み切った競合との価格差は拡大する一方であった。花王にとって、中国での現地生産は市場での存在感を維持するうえで避けられない選択肢となりつつあった。
花王はメリーズを通じて通気性や肌へのやさしさといった品質面での優位を確立していたが、中国市場ではこの品質差が価格差を正当化するほどのブランド認知を得るには至っていなかった。高品質を維持しつつ価格を引き下げるには現地生産が不可欠であるとの結論に達し、花王は紙おむつ事業として初となる海外生産拠点の新設を決定した。
安徽省合肥への工場建設と中間所得層向け製品の投入
2011年4月、花王は安徽省合肥市に現地法人を設立し、2012年末に約60億円を投じて紙おむつ工場を稼働させた。合肥は内陸部に位置しながらも物流網が整備されており、沿岸部に比べて土地・人件費が低いことから、コスト競争力と内陸市場へのアクセスの両面で合理的な立地であった。花王にとって初の海外おむつ生産拠点として、中国市場の本格攻略を象徴する投資となった。
現地生産により販売価格を引き下げた花王は、中間所得層向け製品「メリーズ瞬爽透気」を投入した。日本で培った通気性や肌触りの技術を反映しつつ、現地メーカーとの差別化を図った。販路面ではベビー用品専門店網やECチャネルへの展開を進め、製品と流通の両面で中国市場への浸透を狙った。短期的な収益よりも市場シェアの獲得を優先する方針が明確に取られた。
2021年5月には合肥工場に約60億円を追加投資し、新棟を竣工して生産能力を拡大した。現地生産開始から約10年にわたり、花王は中国市場への投資を継続する姿勢を維持していた。紙おむつ市場の成長率が依然として高く、先行投資によって規模を確保すれば中長期的に採算が見込めるとの判断が、追加投資の前提にあった。
現地メーカーの台頭と600億円の構造改革費用を伴う生産撤退
しかし2010年代後半以降、中国の紙おむつ市場では現地メーカーの品質向上が急速に進み、日系メーカーの技術優位は縮小した。政府による国内産業の育成策も追い風となり、中国メーカーは価格競争力に加えて品質面でもキャッチアップを遂げた。消費者の嗜好も国産志向へと傾斜し、花王のメリーズは市場シェアの低下傾向をたどった。市場自体は成長していたが、花王の採算性は悪化していた。
2023年8月、花王は中国での紙おむつの現地生産を終了し、合肥工場を閉鎖する方針を発表した。約600億円の構造改革費用を計上し、中国市場からの完全撤退ではなく日本からの輸出販売に切り替えた。ROICの低下が全社の経営指標に影響を及ぼしていたことが撤退判断の契機となり、EVAからROICへ指標を転換した花王の経営改革が事業撤退の推進力として機能した事例となった。
2024年2月、花王が閉鎖した合肥工場は中国の杭州豪悦護理用品への売却が発表された。花王が築いた生産設備が競合の手に渡るかたちで決着した。本件は、高成長市場であっても現地メーカーのキャッチアップが進めば技術優位は永続しないこと、そして投資回収期間と競争環境の変化速度を見誤ったときに生じるコストの大きさを示した事例として位置づけられる。