経営指標にEVAを採用
TCRの成果が一巡する中で浮上した資本効率指標の必要性
花王は1986年に開始したTCR活動を通じて、年間100億円規模のコスト削減を十数年にわたり継続してきた。原材料の共通化、生産工程の効率化、物流網の再編など、事業活動の全領域にわたるコスト構造の見直しにより、安定した収益基盤を構築した。しかし1990年代後半に差しかかると、削減余地の縮小とともに、TCRだけでは次の成長をどう実現するのかという問いに対する回答を持たない状況が明確になりつつあった。コスト削減は利益の下支えにはなるが、新たな投資の方向性を示す指標としては機能しなかった。
1990年代後半の日本企業においては、資本コストを明示的に管理する経営指標はほとんど普及していなかった。多くの企業が売上高や営業利益を業績の基軸に据え、投下資本に対するリターンを体系的に評価する仕組みは一般的ではなかった。花王社内でも、TCRによって生み出された余剰資金をどの事業に優先的に配分すべきかを判断するための共通指標が不在であり、各事業部門が個別に投資判断を行う状況が続いていた。資本配分の規律を全社レベルで統一する必要性が、経営課題として認識され始めていた。
EVAの全社導入と投資判断・人事評価への組み込み
1999年、花王はEVA(経済的付加価値)を全社の経営指標として本格導入した。EVAは税引後営業利益から投下資本に対する資本コストを差し引くことで、事業が株主価値をどの程度創出しているかを定量的に測定する指標である。花王はTCRの次段階として、コスト削減にとどまらず資本の使い方そのものを可視化し、全社的な投資規律を確立することを目指した。日本企業としてはきわめて早い段階での導入であり、資本効率を経営の中心に据える姿勢は内外から注目を集めた。
EVAの導入にあたっては、経営指標としての採用にとどまらず、投資判断や人事評価の基準にも組み込むかたちで運用された。事業部門ごとにEVAの改善目標を設定し、現場レベルでの業務改善がEVAにどう反映されるかを説明する教育プログラムも整備された。これにより、資本コストという概念が経営トップから現場までを貫く共通言語として浸透し、花王の意思決定プロセスに深く根づいていった。EVA経営は単なる指標の導入ではなく、組織全体の判断基準を統一する仕組みとして設計されていた。
EVAの長期運用がもたらした限界とROIC併用への転換
EVA経営を20年以上にわたって運用する中で、指標としての構造的な限界が顕在化した。EVAは全社合計で算出される指標であるため、事業ごとの資本効率の差異を可視化しにくく、どの事業が資本コストを上回るリターンを生み出しているかを個別に評価することが困難であった。2018年度には935億円であったEVAが2022年度には147億円まで悪化し、化粧品事業や海外事業の低迷が全社の数値を押し下げる構造が明らかになった。しかし事業別の要因分析が十分に行われなかったことで、問題の所在を特定し対処する速度に遅れが生じた。
この反省を踏まえ、花王はEVAに加えてROIC(投下資本利益率)を併用する財務戦略へと転換した。ROICは事業単位での資本効率を測定する指標であり、事業ごとの収益性と投資妥当性を比較可能にする。中期経営計画K27ではROIC11%以上を全社目標として掲げ、事業ポートフォリオの見直しと資本配分の最適化を明確に打ち出した。EVA経営は花王に資本コストの概念を根づかせ、数字経営を高度化する重要な通過点であったが、環境変化に応じて指標そのものを更新する必要性を示した事例でもあった。