ブルドーザーの量産投資に注力
朝鮮戦争終結による砲弾需要の縮小とブルドーザー量産の機運
1950年代に入ると米軍向け砲弾の受注が先細りとなり、小松製作所は収益構造の抜本的な転換を迫られた。同社は売上高の72%を砲弾に依存しており、1955年頃には朝鮮戦争の終結にともなって砲弾需要の縮小が確定的となっていた。砲弾製造の主力拠点であった大阪工場では稼働率の低下が懸念され、代替となる量産品目の確保が喫緊の経営課題として浮上した。当時の証券アナリストからは「米軍次第で浮き沈みする危険な事業」と評され、市場からの信認も低下しつつあった。
一方で、小松製作所は1947年にD50ブルドーザーを完成させて以降、D80・D30・D120・D40と毎年のように新型機種を投入しており、1954年には生産台数の累計が1000台を突破する実績を積み上げていた。加えて、日本政府が「道路整備5カ年計画」を策定し、道路建設やダム建設といった公共事業の本格化が見込まれていた。公共事業の拡大は建設現場の機械化需要を増大させるため、ブルドーザーをはじめとする建設機械への需要が伸長することが予測されていた。
大阪工場の生産品目を砲弾からブルドーザーに全面転換
1956年5月、小松製作所は大阪工場の主要生産品目を「米軍向け砲弾」から「ブルドーザー」に転換する方針を決定した。砲弾製造に使用していた生産設備をブルドーザーの量産向けに再編し、大阪工場をブルドーザー専用の量産拠点として整備した。既に開発を完了していた複数機種の生産ノウハウを活用することで、量産体制の立ち上げを短期間で実現することを目指した。この決定により、小松製作所は砲弾依存からの脱却を図り、建設機械メーカーへの本格的な業態転換に踏み出した。
量産体制の構築にあたっては、1947年以降に蓄積したブルドーザーの開発・試作実績が重要な基盤となった。D50からD40に至る複数機種の設計・製造を通じて培った技術的知見と、粟津工場での量産経験が、大阪工場における生産ラインの迅速な立ち上げを可能にした。砲弾製造で培った金属加工技術も建機部品の製造に転用可能であり、既存の生産設備を改修する形で量産体制を整備した。並行して新製品の開発投入も継続し、1959年にはD250ブルドーザーを市場に投入するなど製品ラインナップの拡充を推進した。
建設機械が総生産高の70%を占める業態転換の完了
こうした取り組みの結果、政府の道路整備5カ年計画の本格実施やダム建設にともなう建機需要の増大に支えられ、小松製作所は1959年12月期に売上高92億円・利益7億円強を計上し、いずれも創業以来の過去最高を記録した。建設機械が総生産高の約70%を占めるまでに事業構成が変化し、わずか3年前には売上高の72%を砲弾に依存していた収益構造は、建設機械を主力とする業態へと転換された。
業態転換が短期間で実現した背景には、転換を決定する以前から約10年にわたって蓄積されたブルドーザーの開発実績がある。砲弾需要の縮小が確定的となった段階で初めて建機に着手したのではなく、1947年以降の継続的な開発投資が量産決定時に即座に活用可能な状態にあったことが、転換の速度と確度を支えた。この業態転換により、小松製作所は国内トップの建設機械メーカーとしての基盤を確立し、1960年代のキャタピラー社との競争に臨む出発点を形成した。