重要な意思決定
1962

アジア合弁事業(NIPSEA事業)を開始

背景

戦前の東南アジア資産を喪失した日本ペイントが再進出を模索

日本ペイントは戦前に東南アジアにおける生産・販売網を構築していたが、1945年の敗戦により海外資産をすべて喪失した。1962年に日本ペイントの小畑千秋氏(当時専務)はシンガポールに出張し、東南アジアにおける現地販売の再強化を計画した。しかし東南アジアは歴史的に欧米の植民地であった背景から欧米系塗料メーカーがシェアを確保しており、日本ペイントが後発で参入する余地は限られていた。

さらにシンガポール政府が輸入塗料に20%の関税を課す方針と、塗料の合弁会社を1社だけ認める方針を表明したことが意思決定の時間的制約を生んだ。日本ペイントは欧米系企業に先んじて合弁パートナーを確保する必要に迫られ、タイの大手財閥チャロン・ポカパン社に勤務していた呉清亮(ゴー・チェンリャン)氏との接点を得た。

決断

出資比率30%のマイノリティ出資でアジア合弁事業を開始

1962年から1963年にかけて日本ペイントはチャロン・ポカパン社と合弁会社を設立し、東南アジアへの再進出を果たした。出資比率は日本ペイント30%・現地企業60%・日系貿易会社10%とし、日本ペイントが技術・生産の指導を担い、現地企業が販売を担当する体制を構築した。のちに呉清亮氏がチャロン・ポカパン社から独立してウットラム社を創業したことで、合弁相手はウットラム社に継承された。

呉清亮氏の経営のもとでNIPSEA事業(Nippon Paint South East Asia)は急速に拡大し、1960年代から1970年代にかけてマレーシア・タイ・インドネシア・香港・フィリピンに相次いで進出した。日本ペイントのマイノリティ出資という構造は、現地経営を呉氏に委ねて技術供与を通じて関与するという役割分担を固定化した。

結果

マイノリティ出資構造が半世紀にわたり継続しアジア事業の利益取込みを制約

日本ペイントによるマイノリティ出資の構造は、2014年にNIPSEA事業の連結化が実現するまで半世紀以上にわたり維持された。出資比率が25〜50%にとどまったことで、NIPSEA事業がアジア各国で急成長してもなお利益の大部分は日本ペイントの連結決算には反映されなかった。技術供与の対価としてロイヤルティ収入は得られたが、成長の果実を十分に取り込めない構造が長期間にわたって固定化された。

一方で呉清亮氏およびウットラム社がNIPSEA事業の経営を主導したことこそが、アジア各国での市場開拓を可能にした要因でもあった。日本ペイントが経営権を握っていた場合に同等の成長を実現し得たかは不確実であり、マイノリティ出資という制約と引き換えに得た現地経営者の裁量が、NIPSEA事業の急成長を支えた側面がある。