重要な意思決定
18983月

日本ペイント製造株式会社を設立

背景

海軍拠点の西日本拡大に伴い東京一拠点体制の限界が顕在化

明治時代を通じて海軍は艦艇根拠地を拡大し、従来の横須賀に加えて佐世保・呉など西日本地区を中心に拠点を新設した。海軍向け塗料の販売先が西日本に及ぶようになり、東京拠点のみでは事業展開に制約が生じた。生産・販売の地理的拡張が不可避となったことで、資金調達力の強化が経営課題として浮上した。

そこで1898年3月に日本ペイント製造株式会社を設立し、株式を通じて広く出資者を募ることで東京・大阪にそれぞれ大規模工場を新設する計画を立案した。設立時には150名が株主として出資し、経営と所有が分離する会社形態に移行した。社長には田坂初太郎氏が就任したが、安定的な経営体制の確立には数度の交代を経る必要があった。

決断

東京品川・大阪大淀に工場を新設し二大拠点体制を確立

株式会社設立と同時に東京における新工場の建設地を南品川に決定し、品川硝子製造所の跡地を取得して東京工場を新設した。この東京工場は2024年時点においても日本ペイントの東京事業所として稼働しており、126年にわたり活用されている。西日本地区においては1905年に大阪工場を新設し、水運の利便性に優れた新淀川沿いの大淀を立地に選定した。

東京・大阪の二大拠点体制の確立により、日本ペイントは海軍の全国拠点に対応する生産・供給体制を整備した。大阪工場は2024年時点で日本ペイントの大阪本社として機能しており、明治期の工場立地が現在の本社所在地を規定している。株式会社化による資金調達力の獲得が、東京・大阪の二拠点という日本ペイントの基本的な空間構造を形成した。

結果

明治期に選定した工場立地が120年以上にわたり企業の拠点構成を規定

品川と大淀に設置された工場は、その後の事業拡大や組織変革を経てもなお日本ペイントの中核拠点として機能し続けた。明治期における海軍拠点の地理的配置に対応するために選定された工場立地が、海軍という顧客が消滅した戦後も含めて120年以上にわたり事業拠点であり続けている。創業期の不動産取得が企業の空間的構造を長期にわたり規定する力学を示している。

株式会社化に際して経営と所有を分離した構造は、後に小畑源三郎氏による経営参画を可能にする基盤ともなった。創業家ではない外部人材が株式取得を通じて経営に関与する道が開かれたことで、日本ペイントは創業者一族による支配から早期に離脱する体質を持つことになった。