重要な意思決定
188110月

協同組合「光明社」を創業

背景

開成学校で化学を学んだ茂木重次郎が洋式塗料の国産化に着手

明治時代初頭に開成学校(現・東京大学)で化学を学んでいた茂木重次郎氏は、欧米で広く普及していた塗料の製造技術に着目した。ドイツ人化学者ワグネル氏から塗料製造の技術を学び、亜鉛華塗料の開発を経て日本初の洋式ペイントの実用化に成功した。1881年10月に東京芝区三田四国町にて共同組合「光明社」(現・日本ペイント)を創業し、国産塗料の製造と販売を開始した。

光明社の創業時における唯一の顧客は海軍であり、生産された製品の全量を納入する体制であった。海軍は艦船向け塗料の国産化を求めており、光明社が国内で初めて洋式塗料の実用化に至ったことから、国産製品育成の観点で発注に至った。工場を東京に設置した理由は、明治初期における海軍の拠点が横須賀のみであったことによる。

決断

塗料国産化の先駆者として業界を開拓するも民需市場の未成熟に直面

日本ペイントは塗料の国産化における先発企業であり、業界のパイオニアとして認知された。競合企業が現れたのは光明社の創業から5年後の1886年で、大阪で創業した大阪阿部ペイント製造所(現・大日本塗料)であった。明治期を通じて塗料の需要が海軍の船舶向けにほぼ限定されていたことが、競合参入の遅れと市場規模の制約の双方を生んだ。

日本ペイントは国産塗料の先駆者としての地位を確立したが、海軍以外の顧客基盤の開拓には長期にわたり苦戦した。塗料の民需市場が本格的に拡大するのは大正期以降の建築需要の増加を待つ必要があり、創業から約40年間は海軍への依存度が高い事業構造が続いた。市場そのものが未成熟な段階で創業した先発者が市場の成長を待ち続ける構図は、技術的な先発優位と商業的制約の併存を示すものであった。