第二五七一号(7)決断社史 一九六〇年代令和八年十月三日(土曜日) 発行所 The社史

日本企業の決断 一九六〇年代

一九六〇〜六九年

第一三六号

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1969年(昭和44年)

大型の合併による再編が進み、ニチボーとの合併でユニチカが発足し、川崎重工業は川崎航空機・車輛を、住友重機械工業は浦賀重工業を吸収した。一方で安宅産業は住友商事との合併を撤回した。三菱商事のブルネイLNG参画や東京ガスのアラスカ産LNG導入など、液化天然ガスへの布石も打たれた。

1968年(昭和43年)

技術を起点に事業の幅を広げる決断が多い年だった。コマツは油圧ショベルに参入し、ディスコは極薄砥石を開発、東洋紡は犬山工場をフィルムへ転じた。アリアケジャパンの畜産エキス自社製造のように内製に踏み込む動きもあった。日商岩井が合併で生まれる一方、王子HDは十條・本州合併を撤回した。

1967年(昭和42年)

新しい技術で勝負に出る決断が多く、マツダはロータリーエンジンを量産化し、日本特殊陶業はセラミックICパッケージを発売した。宝HDはキリン・サッポロへ工場を売却し、栗田工業は伊藤忠商事のもとで再建に入った。ダイハツ工業とトヨタの提携、兼松と江商の合併など、他社との組み直しも進んだ。

1966年(昭和41年)

隣接領域への展開と大型投資が並んだ。東急は多摩田園都市を建設し、日本航空はボーイング747の導入を決めた。日産自動車はプリンス自動車と、東洋紡は呉羽紡績と一緒になり、川崎重工業はAmerican Kawasakiを設立して海外へ出た。常磐興産は常磐ハワイアンセンターを開いた。

1965年(昭和40年)

売り方を変える決断が目立った。江崎グリコは末端出荷主義へ転じ、アマダは代理店を通さない直販網を築いた。山一證券は日銀特融を受け入れ、日本興業銀行がその再建を引き受けた。大成建設は大倉家支配を解消して本部制へ移り、堀場製作所は排ガス測定装置を事業化した。

1964年(昭和39年)

海運と重工で大きな合併が相次いだ。三菱重工業は三社の再合併で一つに戻り、日本郵船は三菱海運を合併し、商船三井は三井船舶との対等合併を選んだ。販売にも手が入り、パナソニックは熱海会談で販売制度を改め、花王は問屋を外す再販契約に踏み切った。セイコーエプソンは「EPSON」を定めた。

1963年(昭和38年)

外部の資本や技術を取り込む決断が多かった。住友ゴム工業はダンロップから経営権を移され、コーセーHDは仏ロレアルと技術提携し、東京エレクトロンは東京放送の出資で創業した。積水ハウスは代理店販売をやめて直販へ転じ、サントリーHDはビール市場に参入するなど、自ら市場を開く動きもあった。

1962年(昭和37年)

新製品の発明と大型投資が並んだ年である。日清食品HDのチキンラーメン、大正製薬HDのリポビタンDが生まれ、日本鋼管は福山に総合製鉄所を建てた。ヤマハのレジャー事業参入やセコムの日本警備保障設立など、新しい市場を切り開く試みも目立った。日本ペイントはシンガポール合弁で再進出した。

1961年(昭和36年)

多角化に踏み出す決断が目立ち、鐘紡はペンタゴン経営を掲げ、日活はホテル・不動産へ広げた。ただし任天堂のダイヤ交通などは全敗に終わった。川崎製鉄の水島製鉄所建設のような大型投資の一方、コマツはマルA対策で品質に集中し、塩野義製薬は独創品へ路線を改めるなど、絞り込みの判断もあった。

1960年(昭和35年)

主力事業の転換と技術導入が重なった。伊藤忠商事は総合商社へ、江崎グリコは総合食品へと舵を切り、オムロンは無接点近接スイッチで事業の軸を移した。東海カーボンや日本製鋼所は海外企業と技術提携し、クボタは純国産トラクタを出した。カゴメがデルモンテとの提携を拒んだのも同じ年である。

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