石油の開発から精製・販売までを一貫化する「和製メジャー」構想と東亜石油の系列化
繊維商社の伊藤忠は、なぜ本業外の石油に一貫進出を賭け、和製メジャーの夢はどこで潰えたのか
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- 概要
- 1966年、越後正一社長のもとで伊藤忠商事が精製・販売会社の東亜石油をアラビア石油からの株式取得で系列化し、続いて1970年にジャワ海のイアプコ油田権益を取得して、石油の開発から精製・販売までを一貫して手がける「和製メジャー」を志向した経営判断。繊維商社からの脱皮を進める資源確保戦略の中核であった。
- 背景
- 越後正一社長は資源の確保を総合商社の使命と考え、石油と自動車に強い意欲を注いだ。国内では系列スタンド数が商社系で首位に立っていたが、開発と精製の川上・川下は握れておらず、三菱商事が唯一持つ原油輸入ライセンスの取得も視野に、一貫体制を志向していた。
- 内容
- 1965年秋に病床の山下太郎氏から東亜石油株の肩代わりを打診され、住友銀行の反対を押し切って1966年夏に経営支配を掌握した。川崎・知多の製油所を各10万バーレルに拡張し、開発では戸崎副社長らの交渉でイアプコ社株7%を2100万ドルで取得し、販売権40%を得て1970年1月に調印した。
- 含意
- 開発(川上)は油田が当たって成功した一方、精製・販売(川下)はタンカー用船の失敗や過大な設備投資、製油所の低操業が重なり、1984年末までに約1000億円の損失を出した。1979年に経営権を譲渡し、1985年に完全撤退した。資源確保の理念とリスクの重さが交錯した判断であった。
資源をめぐる使命と、その代償
この判断の中心にあるのは、資源を持たない国の商社が、原油の権益を自らの手で押さえることをどこまで使命として背負えるか、という問いである。資源ナショナリズムが強まる前夜に、越後正一社長は開発から精製・販売までを一社でつなぐ絵を描き、進退まで賭けて川上と川下の双方に踏み込んだ。理念としては、のちの資源高の時代を先取りする構えであったとみることもできる。ただ、油田の一発を当てることと、製油所を採算に乗せて回し続けることは、まるで性質の異なる仕事であった。
結果として、賭けの色が濃い川上の油田は当たり、地道な経営を要する川下の精製・販売で約1000億円を失った。開発の博打に勝ち、事業の運営で敗れたという対比に、この一貫化の難しさが凝縮されている。商社が資源に深く踏み込むとき、権益を取る力と、取ったあとの重い装置産業を担い続ける力は別物である——伊藤忠の和製メジャーのざ折は、資源投資とリスク管理をめぐる問いを、今日の商社にも残しているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
繊維商社が資源に向けた執念
越後正一社長にとって、石油は最も意欲を注いだ事業であった。伊藤忠は早くから石油の国内販売会社を設けて地盤を固め、系列スタンドの数は商社系で首位に立っていた。しかし販売の足場を得ても、原油の開発と製油という川上・川下は握れていない。1963年5月、越後社長は相当な犠牲を覚悟したうえで石油産業への本格進出を決めた。繊維に偏った事業構成から抜け出すうえで、石油は象徴的な戦場であった[1]。
越後社長は、海外資源の確保そのものを商社の使命と考えていた。石油の開発は俗に「千に三つ」といわれるほど成功率の低い事業で、周囲からは数々の忠告が寄せられた。それでも、リスクを覚悟してでも乗り出すべきであるという信念を崩さなかった。資源を持たない日本にとって、原油の権益を自らの手で押さえる意味は、目先の採算をこえて重いと見ていたことがうかがえる[2]。
和製メジャーの狙い
伊藤忠が描いたのは、原油の開発と供給から国内の精製・販売までを一社でつなぐ和製メジャー、すなわち日本版の国際石油資本であった。その先には、総合商社では三菱商事だけが握っていた原油の輸入ライセンスの取得という狙いもあった。販売だけでは川下の一角にすぎず、開発と精製を欠いたままでは石油メジャーには並べない。一貫体制の構築は、この構図を埋めるための布石であった[3]。
川下の足場に選ばれた東亜石油は、平坦な相手ではなかった。民族資本の大同団結が叫ばれた時代のなかで、同社は巨額の累積赤字を抱えていた。一流の製油所に育てるには、5万バーレルの処理能力を最低でも20万バーレルほどまで広げる必要があり、それはおそろしく資金を要する仕事であった。越後社長自身、これを危険をはらむ問題と受け止めていた。理念の裏には、重い財務負担がはじめから見えていたことになる[4]。
決断
東亜石油の系列化——川下の掌握
きっかけは、1965年秋に訪れた。病床にあったアラビア石油の山下太郎氏から、越後社長は同氏が持つ東亜石油株の肩代わりを打診された。伊藤忠はそれ以前からアラビア石油に資本参加し、役員を送って協力していた縁があった。昭和電工の安西氏や富士銀行の岩佐頭取、石坂泰三氏らの後押しも受け、肩代わりの話はやがて実を結ぶ。越後社長は経営首脳を送り込み、川崎工場を10万バーレルに広げ、知多には10万バーレルの新鋭製油所を建てた[5]。
報道が伝える経緯は、越後社長の回想よりも生々しい。1966年夏、伊藤忠は東亜石油の当時の社長の頭越しに、アラビア石油から東亜株38.5%を取得して同社を系列化した。この動きに主力銀行の住友銀行は反対したが、越後社長は反対を押し切って東亜の経営支配を強行したと記録されている。銀行との軋轢を承知で川下の主導権を握りにいった点に、この判断の強引さがにじむ[6]。
イアプコ油田——川上への進出と退路を断つ決断
精製と販売はそろっても、原油の開発だけは見当がついていなかった。1969年3月、エネルギー本部からジャワ海の油田を掘り当てたイアプコ社の利権取得の禀議が上がる。親会社ナトーマス社との交渉は難航し、戸崎副社長はサンフランシスコに2週間滞在して臨んだ。その結果、イアプコ社株の7%を2100万ドルで取得し、産出量全体の40%の販売権を得ることで折り合った。開発の当てのなかった一貫体制に、ようやく川上の一角が加わった[7]。
この決断で越後社長は、みずからの進退まで賭けた。油が予定量に届かなければ2100万ドルを海に捨てることになる——そうなれば即座に社長の座を退く決意を固め、郷里の多賀大社と会社の氏神である坐摩神社に祈願を重ねた。契約が販売権という当時の常識を超えた形だったため、批判も浴びた。1970年1月22日、東京でナトーマス社首脳と調印し、井戸から精製・販売までをつなぐ一貫体制の構想が形になった[8]。
結果
一貫体制の綻び
開発は当たったが、川下が重荷になった。第一次石油ショックのあと、東亜石油をめぐる事業は次々に狂った。タンカーの用船で失敗し、重質油の分解装置には過大な設備投資がかさみ、子会社・東亜共石の知多製油所は操業率が上がらない。これらが折り重なり、1984年末までに東亜石油関連で計上した損失は、約1000億円にのぼった。一貫化の理念は、川下の採算という現実の前で軋みはじめていた[9]。
出血は、撤退のはるか前から表面化していた。1978年の時点で、伊藤忠は不動産と石油だけで、放っておいても年間およそ130億円の損が出る体質と評された。同じ1978年3月期の経常利益が約84億円だったことに照らせば、二事業の痛手が本業の稼ぎを上回っていたことになる。石油の一貫体制は、会社全体の収益構造を圧迫する重荷へと転じていたとみることができる[10]。
和製メジャーのざ折
伊藤忠は「東亜問題特別委員会」を設けて始末に動いた。1979年末、東亜石油と東亜共石の経営権を、それぞれ昭和石油と日本鉱業へ譲渡する。経営からは退いたものの、株式を手放したあとも原油の精製委託契約は1989年末まで残り、損失の尾は容易には切れなかった。川下の主導権を握るために強行した系列化は、十数年を経て、いかに身を引くかという問題へと変わっていた[11]。
幕引きは1985年に訪れた。伊藤忠は約250億円とされる解決一時金を払ってでも、東亜石油から一気に手を引くことを選ぶ。当初の狙いだった原油の輸入ライセンスは、ついに得られなかった。開発から精製・販売までを一社で束ねる和製メジャーの構想は、川上の油田では成果を上げながら、川下の採算で挫折した。国内石油ビジネスの難しさを映す撤退であったといえる[12]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」(越後正一、1975年)
- 日本経済新聞(1985年1月3日)「“和製メジャー”ざ折」
- 日経ビジネス 1978年10月9日号「伊藤忠の憂鬱」