グレーターカネボウ計画とペンタゴン経営による多角化
天然繊維依存からどう抜け出すか、武藤絲治氏が着手した多角化は鐘紡に何を残したか
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- 概要
- 1961年、鐘紡が武藤絲治社長の主導でグレーターカネボウ(GK)建設計画を公表し、ナイロン・化粧品・食品への多角化に着手、1967年には伊藤淳二社長のもとで繊維・化粧品・食品・薬品・住宅環境の五本柱によるペンタゴン経営へ再編した経営判断。
- 背景
- 1958年前後の博多・中津・中島における主力工場閉鎖で天然繊維依存の限界が明らかになり、武藤絲治社長はイタリア企業からのナイロン技術導入と化粧品・食品への多角化に活路を求めた。
- 内容
- 防府工場へのナイロン投資約200億円、鐘淵化学工業からの化粧品事業買収と販売網への累計約100億円投資でGK計画を1964年に完成させ、1967年には五事業体制のペンタゴン経営へ再編した。
- 含意
- 安定的に利益を生んだのは化粧品事業のみで、繊維は構造赤字を抱え続けた。この規模先行の多角化が、後年の無配転落や粉飾決算まで会社を縛る構造的な弱さの土台になったとみられる。
規模先行の多角化が残したもの
この判断の中心にあるのは、天然繊維一本足という構造的な限界に、武藤絲治氏が正面から向き合った点である。イタリアへ自ら飛んでナイロン技術を持ち帰るという個人的な行動力に始まり、防府工場と化粧品販売網へ大型投資を続けたGK計画は、"大鐘紡"の再興を急いだ経営判断だったとみることができる。化粧品・食品を戦前の事業へ結びつけて説明した点にも、多角化を思いつきの拡大ではなく、鐘紡の歴史の延長線上に位置づけようとする意図がうかがえる。
もっとも、この多角化は繊維事業の縮小を伴わない"上乗せ"であり、伊藤淳二氏が引き継いだペンタゴン経営もまた、化粧品事業だけが独り勝ちする一本足構造を残したままだった。強い事業の利益で弱い事業を支え続ける仕組みは、1975年の無配転落を経てもなお続き、2003年に発覚する粉飾決算という遠い帰結にまで、その根はつながっていたとみられる。規模を広げること自体は、必ずしも事業構造の強さを意味しない。半世紀を経てなお、この判断はその問いを残しているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
天然繊維依存の限界と主力工場閉鎖
戦後の鐘紡は綿・毛・絹・スフを擁する天然繊維の総合メーカーとして再建を果たしたが、1950年代半ばから綿製品の市況が悪化し、経営の重荷になっていった。1958年前後には博多・中津・中島の各工場を閉鎖し、閉鎖の対象はそれまでの従業員100〜500名規模の地方工場から、1000名規模の主力工場にまで広がった。天然繊維一本に頼る事業構造の限界は、もはや誰の目にも明らかになっていた[1]。
工場閉鎖に先立つ1950年代なかば、鐘紡はすでに一度、深刻な経営危機を賃金カットで乗り切っていた。全社一律で1年間の賃金カットに踏み切った緊縮策は、単なる延命にとどまらず、従業員の間に「会社が悪くなると自分も悪くなる」という当事者意識を根づかせた。1964年のダイヤモンド臨時増刊は、この不況対策を武藤絲治氏の"万事人間本位"の経営理念による成果と記している。危機を乗り切った経験は、その後の武藤絲治氏の積極経営を後押しする自信になったとみられる[2][3]。
ナイロン技術導入という最初の一手
1946年に社長へ復帰した武藤絲治氏は、なお繊維斜陽論を否定して縮小を先送りしていたが、1950年代後半の工場閉鎖でその限界を痛感した。1961年、武藤絲治氏はみずからイタリアのスニア・ビスコーザ社に飛び、化繊各社が競って狙っていたナイロンの新技術導入をまとめ上げた。社長に返り咲いた武藤絲治氏にとって、この一手は全生涯を賭けた勝負だった[4]。
鐘紡には、化粧品事業を一から立ち上げる必要のない下地もあった。戦後の1949年、鐘紡は化学部門を鐘淵化学工業として分離し、繊維専業の体制へいったん整理していた。天然繊維とナイロンだけでは成長分野として心もとないと考えた鐘紡は、かつて自社が手がけていた化粧品・食品の事業へ目を向け、分離した鐘淵化学工業から化粧品事業を買い戻す道を選んだ。多角化の種は、社外に出したはずの旧事業のなかに、すでにあった[5]。
決断
グレーターカネボウ建設計画の公表(1961年)
1961年、鐘紡は"グレーター・カネボウ計画"(GK計画)と称する大型多角化構想を打ち出した。ねらいは鐘紡を時代に適した形へ体質改善することにあり、中心に据えたのはナイロンの企業化と、化粧品・食品という新規事業の拡充だった。まったく無縁の事業へ飛び出したわけではない。化粧品・食品はいずれも戦前に鐘紡自身が手がけていた事業に連なり、化粧品はことに、繊維で培った美をつくり出す技術と表裏一体とされた。1961年に動き出したGK計画は、1964年に完成した[6]。
GK計画の実行は、金額の規模において従来の鐘紡の投資とは一線を画した。防府工場ではナイロン事業へ約200億円を投じて合成繊維市場に本格参入し、1961年1月には鐘淵化学工業から化粧品事業を営業譲受してカネボウ化粧品を設立、販売網の構築に累計約100億円を投じた。製造設備ではなく販売網に資金を集中させたのは、化粧品が店頭での密着度で勝負が決まる事業だと見抜いたためであり、この賭けは3年で売上高が10倍に伸びる結果につながった[7][8]。
伊藤淳二氏への交代とペンタゴン経営(1967年)
GK計画が動き出してなお、鐘紡の経営体制は盤石ではなかった。1973年の日経ビジネスは当時を振り返り、"派手な多角経営の失敗"を問われた武藤絲治氏が社長の座を追われ、伊藤淳二氏が後任に就いた経緯を記している。同誌はこの社長交代劇を「巷間"クーデター"などと騒がれたもの」とも伝えた。GK計画そのものは成果を上げながらも、規模先行の投資とワンマン経営への風当たりは、武藤絲治氏の退場という結果につながった[9]。
後任となった伊藤淳二氏は、GK計画が切り開いたナイロン・化粧品・食品の3分野を、さらに広い事業構成へ組み替えた。1967年、伊藤淳二社長のもとで打ち出されたのが、繊維に加えて化粧品・食品・薬品・住宅環境という4つの事業を同時に伸ばす「ペンタゴン経営」である。1965年の立花製菓合併による食品進出もこの流れに連なり、鐘紡は繊維一本足の会社から、5事業を掲げるコングロマリット型の会社へと姿を変えた[10]。
結果
化粧品一本足構造の定着
GK計画は公表からわずか3年で完成し、1964年から65年にかけての深刻な繊維不況のさなかにも、鐘紡は他社より抜きん出た業績を残した。1967年のダイヤモンドは、GK計画によって鐘紡が躍進し、繊維界の不況下でひときわ目立つ好業績を上げたと記している。だが1975年の週刊東洋経済は、GK計画とその後継にあたるペンタゴン経営を並べたうえで、未曾有の繊維不況が鐘紡の弱さを露呈させたと指摘した[11][12]。
1985年になっても、五本柱を掲げたはずのペンタゴン経営は、実態としては化粧品事業ひとつに支えられていた。日経ビジネスは当時の利益構造について、化粧品が100億円以上の利益を上げる一方でそのほぼ半分を繊維の赤字が食い、鐘紡の経営は化粧品だけの一本足に支えられている状態だと分析した。労働組合対策で台頭し1968年に45歳の若さで社長に就任した伊藤淳二氏はペンタゴン経営を掲げて化粧品部門を業界2位の高収益部門へ育てたが、その裏側では複数の事業部門に不採算という病巣が広がっていたと、2010年の週刊東洋経済は後年振り返っている[13][14]。
- 読売新聞 1961年4月26日
- ダイヤモンド臨時増刊 1964年3月10日号「落ちる太陽を呼び戻した鐘淵紡績の秘密」
- ダイヤモンド 1967年9月4日号「異色の多角経営を推進」
- 日経ビジネス 1973年3月19日号「"調和"に悩む工業化の先兵。KTSM(鐘紡、トーメン=インドのニッポンネシア)経営」
- 日経ビジネス 1985年9月30日号「薬品・ファッション・情報で蘇るか」
- 週刊東洋経済 1975年11月8日号「のるかそるか販売優位の"ペンタゴン"経営」
- 週刊東洋経済 2010年11月17日号「特集 異形の百年企業4 一意専心の身の丈経営 粉飾スキャンダルの果て 消滅したカネボウの悲劇」
- 鐘紡 有価証券報告書【沿革】
- 鐘紡 会社年鑑