アマノコンピューター就業管理システム「アレコデータ」の発売
時刻を打つ機械を売るのか、打った時刻を計算する仕組みを売るのか
- 概要
- 1966年に「アレコデータシステム」を発表し、1968年6月にコンピューター就業管理システム「アレコデータ」を発売した判断。国産第1号のタイムレコーダーを作った会社が、打刻機の販売から、打刻した時間を計算する仕組みの販売へ商品の性格を変えた。
- 背景
- 直販とマーケットリサーチでタイムレコーダー市場のシェアを70%まで戻した一方、主力商品は出退勤の時刻をカードに打つ機械のままであった。1964年に米国ニューヨークへ子会社を設け、同年IBM社と技術援助契約を結んでいる。
- 内容
- 1966年6月に商号を天野特殊機械からアマノへ変更し、同年「アレコデータシステム」を発表。1968年6月に発売した。1970年4月には創業者・天野修一氏が80歳で社長に復帰し、アレコデータの開発を復帰の理由に挙げた。
- 含意
- 1973年にアレコシステムの販売を第三事業部から全国の支店・営業所へ広げ、単体売上高は1968年3月期の21億円から1975年3月期に100億円となった。現在の報告セグメント「時間情報システム事業」はこの系譜にあたる。
割れた英国製タイムスタンプの続き
アレコデータの判断は、新商品の投入というより、売り物の定義を変える作業であった。タイムレコーダーは1932年に1台280円で売り始めた機械で、値段も寿命もはっきりしている。対してコンピューター就業管理は、機器と計算と保守をまとめて売る商売で、中身は顧客ごとに変わる。国内シェア70%という有利な位置にいながら、自ら売り物を作り替えにいった点に、この判断の性格がうかがえる。
創業者が80歳で社長に戻った理由を、社史は本人の言葉で残している。タイムレコーダーとコンピュータを結ぶ、それをやったら若い人に後を任せる、と天野修一氏は語った。実際には1976年12月に86歳で死去するまで社長を務め、後任の菅原正氏は就任2カ月後の1977年4月に役員定年制の内規を定めている。海軍工廠で買った英国製のタイムスタンプがすぐ割れた、という小さな不満から始まった会社は、2026年3月期に売上の23.6%を情報システムで、52.7%をパーキングシステムで稼いだ。割れる機械そのものの比率は1.3%である。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
足で作った国内シェアと、打刻機という商品
戦後のアマノは、代理店に頼る販売から抜け出すところから始まった。1952年頃の直売組織は東京と大阪だけで、名古屋・広島・福岡などは代理店が受け持っていた。代理店は計算機やタイプライター、文房具も同時に扱うため、客が欲しいと言えば届けるという売り方にとどまっていた。そこで天野修一氏は1954年末、販売企画係長であった菅原正氏に市場調査を指示した。静岡県、関東北部4県、九州一円をそれぞれ半年かけて調べた結果、従業員60〜70名規模の工場までタイムレコーダーの販売対象になること、30名規模の工場からも注文が取れること、直販経費が総売上高の0.5%以内に収まることが分かった[1]。
直販は知名度の不足を埋めるためにも必要であった。国産第1号のタイムレコーダーを作った会社でありながら、戦前の納入先は海軍と軍需工場が中心で、一般の民間工場にはなじみが薄く、戦後はマルゼンやニデカに知名度で劣っていた。足でブランドを作る以外に手がなく、1958年頃から代理店販売と並行してメーカー直販を本格化した。その積み重ねで1966年にはタイムレコーダー市場のシェアが70%まで戻り、同年度上期の売上高は前期比23.3%増、菊名工場は半期20億円の売上に耐える生産能力を備えていた。それでも主力商品は、出退勤の時刻をカードに打つ機械のままであった[2]。
原価計算という出発点と、IBMとの技術援助契約
創業者の関心は、はじめから機械ではなく計算にあった。海軍工廠の工務係長であった大正初期、天野修一氏は材料の中央管理のために工場庫を設け、工程ごとの作業所要時間を計算して作業を金額で表示することにした。そのために英国からタイムスタンプを購入したのが、時間記録機器との最初のかかわりであった。買ったタイムスタンプはすぐに割れてしまい、改良の意思は1925年の海軍退官後まで持ち越された。時間を金額に換算するという目的が先にあり、打刻機はその手段にすぎなかった[3]。
1960年代に入ると、その計算を電子計算機が担える条件が整った。アマノは1964年7月に米国ニューヨークへ子会社アマノ タイムシステムを設立し、同じ1964年にIBM社と技術援助契約を結んでいる。海外の販売拠点と計算機の技術が同じ年に手元へ来た。二年後に発表する新商品は、タイムレコーダーとコンピューターを接続するものであった[4]。
決断
商号変更と同じ年に発表された「アレコデータ」
1966年、アマノは「アレコデータシステム」を発表した。公式の沿革はこれを時間情報事業のはじまりと記している。同じ1966年6月、商号を天野特殊機械からアマノ株式会社へ変更した。旧社名が創業者個人の名と重なること、「アマノ」がすでにタイムレコーダーの代名詞として通っていたことが変更の理由であった。商品の名と会社の名が同じ年に変わった[5][6]。
発売は2年後になった。有価証券報告書の沿革は、昭和43年6月にコンピューター就業管理システム「アレコデータ」を発売したと記す。前年の1967年8月には東京証券取引所第一部へ上場し、同じ1967年に国産第1号の駐車券発行機「パーキングマスター」の販売を始めている。時間を記録する機械を売る会社から、記録した時間を処理する仕組みを売る会社へ、商品の性格が変わり始めた時期にあたる[7][8]。
80歳の創業者が社長に戻った理由
この転換の途中で、社長の座は二度動いた。1968年4月、天野修一氏は娘婿の藤川道夫氏に社長を譲り、自らは相談役となって経営の第一線から退いた。1969年4月には藤川氏に代わって尾園鉄次郎氏が社長となった。ところが1970年4月、天野氏が再び社長に復帰した。当時80歳であった。税法上の個人的な問題で一時身を引いた事情もあったが、細江工場の建設という大事業に加え、アレコデータやパーキングシステムなどシステム機器の市場開発、空気系商品の充実、海外戦略という課題が重なる時期であった[9]。
復帰にあたって天野氏はこう語っている。「私のような80歳を越す年寄りが社長に返り咲くこともなかったと思うが、アマノの創立者としてどうしてもやらなくてはならないことがあった。タイムレコーダーとコンピュータを結んだ画期的な新製品、アレコデータの開発である。それをやったら若い人達に後を任せるつもりだ」[10]。1968年6月の発売は商品の完成点ではなく、創業者が自分の最後の仕事と定めた開発の途中にあった。
結果
販売網への移管と、製品系列の伸長
発売から5年で、アレコデータの売り方が変わった。1973年、それまで第三事業部の管轄にあったアレコシステムの販売を全国の支店・営業所へ広げた。1975年からは、タイムレコーダーの担当者と空気系商品の担当者を分ける専門セールスを廃し、同一の顧客に複数の商品を組み合わせて売る複合販売制を採っている。単体の売上高は1968年3月期の21億円から、1975年3月期には100億円となった[11][12]。
商品の系列も伸びた。1981年1月にコンピュータータイムレコーダー「インテレコーダー」、1983年に給与計算・労務管理専用マルチコンピュータ「ARECOM 3000」を出し、2001年にはPC接続式タイムレコーダー「TimeP@CK」を発売している。打刻から集計、給与計算までを一続きの商品系列がつなぐようになった[13]。
「時間情報」という事業区分として残る
現在のアマノの有価証券報告書は、報告セグメントを時間情報システム事業と環境関連システム事業の2つに分けている。2026年3月期の時間情報システム事業の売上高は1,369億円、連結売上高は1,764億円であった。1966年に発表した商品の系譜が、そのまま片方のセグメントの名として残っている[14]。
もっとも、祖業そのものの比重は小さくなった。第110期事業報告が示す2026年3月期の事業別売上高構成比は、パーキングシステム52.7%、情報システム23.6%、環境システム14.5%、クリーンシステム7.9%、時間管理機器1.3%であった。時刻をカードに打つ機械は、売上の百分の一余りを占める区分として残っている[15]。
- アマノ50年史(アマノ, 1982)
- アマノ 有価証券報告書(2006年3月期)【沿革】
- アマノ 有価証券報告書(2026年3月期)【セグメント情報】
- アマノ「沿革」(公式サイト)
- アマノ 第110期事業報告 AMANO BUSINESS REPORT(2026年3月期)
- アマノ 会社年鑑(1971年版・1976年版)